曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径 木下利玄  

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曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径 木下利玄

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曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径

木下利玄の曼珠沙華を詠った短歌、現代語訳と品詞分解、句切れと修辞法を解説します。

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曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径

読み:まんじゅしゃげ ひとむらもえて あきびつよし そこすぎている しずかなるみち

作者

作者:木下利玄 (きのしたりげん) 『みかんの木』

現代語訳と意味

曼殊沙華の一つの群れが燃えるように咲く上にまぶしく強い日差しが照るひとところを過ぎてたどれば静かな道だ

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教科書の短歌解説

 

句切れと表現技法

・初句切れ 3句切れ

・3句字余り

・体言止め

解説

木下利玄の短歌集『みかんの木』に収められた「曼殊沙華の歌」と題する連作10首のうちの最初の歌。

作者は、岡山県岡山市足守の出身で、故郷の曼殊沙華を詠んだとされている。

後の「けたたましく百舌鳥が鳴くなり路ばたには 曼珠沙華燃えてこの里よき里」は、帰省した故郷への愛着を表している。

歌の風景

球根で咲く彼岸花は多く群生をしており、「一むら」はその様子を表す。

群れて咲く花の上には秋の光がまぶしく差している。

音はないが華やかで騒々しいと作者には感じられたのだろう。

その群れのあるところを過ぎていくと、花群を離れて一転緑だけの道となる。

その変化を「しずかなる」と表現、異なる2か所の場所を作者が移動したことと同時に、作者の歩みに伴う時間経過を盛り込み、立体的な奥行きのある一首となっている。

歌の背景

木下利玄は結婚後子どもを得たが、2男1女のうち一人を除いて次々に子どものうちに亡くすというつらい経験をしている。

彼岸に咲くこの花にもそのような理由で思い入れがあったと思われる。

「曼殊沙華の歌」連作10首

「曼殊沙華の歌」と題する連作10首はほかに

けたたましく百舌鳥が鳴くなり路ばたには 曼珠沙華燃えてこの里よき里

曼珠沙華の花の群りに午後秋陽照りきはまりゐてむつつりしづか

春(うすづ)ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどこのみち

曼珠沙華真赤に向達ほそ径を取りふりむけばそのまままた見ゆ

曼珠沙華毒々しき赤の萬燈を草葉の陰よりささげているも

曼珠紗華叢(くさむら)の中ゆ千も万も咲き彼岸仏の供養をするか

曼珠沙華あやしき赤の薬玉の目もあやに炎(も)ゆ草生のまどはし

曼珠沙華咲く野の日暮れは何かなしに狐が出るとおもふ大人の今も

町を近みくたびれ歩むみちばたにさいなみ捨てある曼珠沙華の花

 

木下利玄の生家の場所

 

木下利玄の他の短歌作品

大き波たふれんとしてかたむける躊躇(ためらひ)の間(ま)もひた寄りによる

遠足の小学生徒有頂天に大手ふりふり往来とほる

秋陽(あきび)つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径(みち)

牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ

亡き吾子の帽子のうらの汚れみてその夭死(はやじに)をいたいけにおぼゆ

 

木下利玄について

木下利玄(きのしたりげん)本名は利玄(としはる)。

歌人。岡山県生。東大卒。佐佐木信綱の「竹柏会」同人となり歌を学ぶ。同級の武者小路実篤らと『白樺』を創刊、北原白秋・島木赤彦にも影響を受け、歌集『銀』『紅玉』を発表。その後『日光』『不二』同人として作歌を続け、その短歌は彼の歿後高い評価を受けるに至った。大正14年(1925)歿、40才。

木下利玄の短歌の作風と表現技法

口語的発想による清麗な詠風、四四調の破調にも特徴がある。

窪田空穂,島木赤彦らの写実歌風を自らのヒューマニズムにとり入れ、独自の「利玄調」と言われる作風を確立した。




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