川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄に行きたし今日も 寺山修司  

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川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄に行きたし今日も 寺山修司

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川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄に行きたし今日も

彼岸の今日の日めくり短歌は寺山修司の曼殊沙華の短歌をご紹介します。

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川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄に行きたし今日も

読み:かわにさからひ さくまんじゅしゃげ あかければ せつにじごくに いきたしきょうも

作者と出典

寺山修司

※寺山修司の短歌一覧は

寺山修司の有名な短歌と教科書掲載作品一覧

現代語訳

川岸に川に逆らうかのように咲く曼殊沙華の花の赤い色を見ると地獄へ行きたいと願う また今日も

語と文法の解説

・赤ければ…順接仮定法条件 「赤かったので」の意味

句切れと表現技法

・2句切れ 4句切れ

・倒置

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解説

寺山修司の曼殊沙華を詠んでよく引用される歌

「川に逆らひ」というのは、川沿いに咲いている曼殊沙華が川上に向かって咲いているかのように見えるところからの発想だろう。

曼殊沙華の花の位置を表しているが「逆らひ」の方向性が、「地獄」につながるものとなっている。

「赤ければ」の意味

「赤ければ」は順接仮定で、「赤かったので」の意味。

曼殊沙華の態勢ではなく、「赤」という色を強調している。

その「赤」い色と曼殊沙華の独特の形が地獄との連想を生んでいる。

「今日も」は結句に付け足された句であるが、地獄に行きたくなる衝動はそれが彼岸だけのことではない、折々のことであるということを暗示するのだが、この「今日」の特定には他の意味もある。

曼殊沙華は彼岸に咲く花として「彼岸花」という呼び名もあるが、彼岸はあの世のことでありおのずと地獄とかかわりのあることがわかるようになっている。

「赤ければ」の本歌取り

この「赤ければ」に似たものに斎藤茂吉の歌「氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり」がある。

「赤かったのでそれに目をひかれて見ながらも急ぎなので足を止めずに走った」という意味だが、「赤かった」ことが「走りたり」の原因となっている。

寺山の歌の場合は 「赤かったので」「地獄に行きたいと願った」というもので、花の赤さ、そしてその火花のような独特な形が地獄に表される青春期の無軌道な衝動を生んだことを表している。

斎藤茂吉の歌については下の記事に

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寺山修司について

寺山 修司(てらやま しゅうじ)1935年生

青森県弘前市生れ。 県立青森高校在学中より俳句、詩に早熟の才能を発揮。 早大教育学部に入学(後に中退)した1954(昭和29)年、「チエホフ祭」50首で短歌研究新人賞を受賞。 以後、放送劇、映画作品、さらには評論、写真などマルチに活動。膨大な量の文芸作品を発表した。

 




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