人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花
正岡子規の代表作ともいわれる有名な短歌にわかりやすい現代語訳を付けました。
各歌の句切れや表現技法、文法の解説と、鑑賞のポイントを記します。
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読み:ひともこず はるいくにわの みずのうえに こぼれたまる やまぶきのはな
作者と出典
正岡子規 『墨汁一滴』『竹乃里歌』
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人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花 の意味
人も訪ねてこない春の終わりの庭の水の上に、こぼれてはたまる山吹の花よ
人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花 の句切れ
句切れなし
表現技法
- 体言止め
文法と語句の解説
- 春行く・・・「行く」は「過ぎる」の意味。春の終わり
- 水の上・・・庭にあった水場のようなところと推測できる
人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花 の背景
正岡子規は結核の脊椎カリエスという病気で歩行がかなわず、重病であったが入院はせずに、家で横になったまま毎日を過ごしていた。
植物をスケッチするのが楽しみであったため、門人や家人が寝たまま眺められるように、庭には多くの植物が植えられ鑑賞が可能なようになっていた。
一連にはその位置を示す歌がある。
ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寝ながら見ゆる山吹の花
それを見ながら、子規は「山吹の歌」で終わる一連の歌を作っている。
人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花 の鑑賞
正岡子規の「山吹の花」で終わる一連の作品のうちの代表作といえる歌。
人気のないひっそりと静まる春の庭、人恋し気に入口の方を見やると、春の光を浴びる水の上に散るった山吹の花の黄色が鮮やかに目に入る光景である。
歌の背景
初出の『墨汁一滴』には
病室のガラス障子より見ゆる処に裏口の木戸あり。(中略)今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめてうたた歌心起りければ原稿紙を手に持ちて
とこの歌が記されるまでの詞書様の文章がある。
歌の詠まれた状況
一連には
歌の会開かんと思ふ日も過ぎて散りがたになる山吹の花
の歌もある。
子規庵には常時門人たちも出入りしていたが、たまたま春も終わりのこの頃は人気が途絶えていた時であったのだろう。
初句の「人も来ず」で、人気のない様子がまず示されている。
「春行く庭の」として、季節を取り込んでいる。
「水の上に」の「上」は「へ=え」と読めば字余りではない。
水がどのようなものかは、他の歌に「水汲みに往来の袖の打ち触れて散りはじめたる山吹の花」とあるので、おそらく井戸と水場があったと思われる。
「散る」と「こぼる」の違い
「散る」という言葉を使わずに「こぼれて」との表現に着目するところだが、一連には、
水汲みに往来の袖の打ち触れて散りはじめたる山吹の花
があり、こちらには「散る」が使われている。
単純に言うと
- 人の往来のある時・・・「散る」
- 人も来ない時・・・「こぼる」
と対照できよう。
「こぼる」(文語基本形)は、花がおのずから散る様子を思わせる。
同じ「こぼる」が用いられた他の歌には、
松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
があるが、この「こぼる」も自然の自発的なものであるといえる。
「山吹の花」他の歌
山吹の花と人の不在の関連を示す他の歌には下の作品もある。
かたりあふ友こそなけれ口なしの色にさくてふ山吹の花
「口なしの」は梔子のことで、この場合の梔子の色というのは、乳白色の色の山吹の花であったろう。
友がいないことと山吹の色を並置している歌だが、最初の歌の方が、情景の描写が花のみにとどまらず、幅広く情感豊かに表されていると思われる。
正岡子規「山吹の花」の一連の歌
「山吹の花」で終わる短歌は他にもある
小縄もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにする山吹の花
水汲みに往来の袖の打ち触れて散りはじめたる山吹の花
まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年経たる山吹の花
歌の会開かんと思ふ日も過ぎて散りがたになる山吹の花
我庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まくの山吹の花
あき人も文くばり人も往きちがふ裏戸のわきの山吹の花
春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見えぬ山吹の花
ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寝ながら見ゆる山吹の花
春雨のけならべ降れば葉がくれに黄色乏しき山吹の花
正岡子規の短歌代表作はこちらの記事に