与謝野晶子の関東大震災の短歌が、9月1日の朝日新聞で紹介されました。
東京都内の自宅で被災した与謝野晶子の震災の短歌をご紹介します。
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関東大震災で被災
関東大震災が起きたのは、大正12年(1923年)9月1日午前11時58分のことです。
震災の規模はM8で、多くの建物が崩壊後、大規模な火災が起こり、44万戸以上の家屋が焼失。
およそ10万の人が亡くなったとされています。
月もまた危うき中を逃れたる一人と見えぬ都焼くる夜
読み:つきもまた あやうきなかを のがれたる ひとりと見えぬ みやこやくるよる
作者と出典
作者:与謝野晶子
出典:歌集『瑠璃光』
与謝野晶子と関東大震災
与謝野晶子は関東大震災の折は東京都千代田区に住んでいました。
年齢は44歳の時。子どもたちと一緒に避難をして、2晩を土手のようなところで過ごしたといいます。
幸いなことに、夫の与謝野鉄幹と後も含めて10人の子どもたちは皆無事であったのです。
しかし、晶子の痛手は10年間手がけていた源氏物語の訳の原稿を火災で失ってしまったことでした。
与謝野晶子の関東大震災の短歌から、震災と被災の様子を読んでいきましょう。
与謝野晶子と関東大震災の短歌
地震後、晶子は新聞雑誌等に震災の惨状を詠んだ歌を発表し、大正 14(1925)年 1 月に発表された『歌集瑠璃光』に50首が収録されました。
自らも被災をして、東京の町が燃えるところを目撃した晶子の短歌は詳細を極めています。
九月一日の震災を記載
大地をば愛するものの悲しみを嘲める九月朔日の天
大正の十二年秋帝王のみやことともにわれほろびゆく
朔日とは一日のことで、新聞の時事詠らしく日付を読み込んでいます。
休みなく地震なゐして秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街
天地崩(く)ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき
余震がずっと続いたことが詠まれています。
被災を受けて建物が崩れた街の惨状を「天地」が崩れたとしています。
火災への恐れ
魔の鳥が火の翅のべ羽ばたきす正目に人の見うべしやこれ
この都三日三夜燃えてただわれのわななく土を今残すのみ
目をそむけたくなるほど火災の炎が激しいこと、また、長く続いたことで、「三日三夜」はおそらく事実なのでしょう。
負傷者と10万人が死亡
傷負ひし人と柩が絶間なく前わたりする悪夢の二日
この夜半に生き残りたる数さぐる怪しき風の人間に吹く
負傷した人、亡くなった人に対し、今ある人は「生き残り」と表現しています。
それだけ負傷者も被災者も多かったといえるでしょう。
被災した人たち
誰見ても親はらからのここちすれ地震をさまりて朝に到りて
露深き草の中にて粥たうぶ地震に死なざるいみじき我子
被災後のみだれた気持ちの中にも、見知らぬ人にも感じる哀惜の念。
そして、しみじみ子らの無事を喜ぶ心も表されています。
ちなみに与謝野晶子の故郷は大阪、堺市だったので、親族は無事だったと思われます。
震災後の月
地震の夜半人に親しきこほろぎのよそげに鳴くも寂しかりけれ
空にのみ規律残りて日の沈み廃墟の上に月上りきぬ
晶子と家族は、そのまま「土手」において、2昼夜を過ごしたそうでで、その時に目にしたものを読んでいます。
月もまた危うき中を逃れたる一人と見えぬ都焼くる夜
一連の中の代表作と言えるでしょうか。
見知らぬ人との連帯感、コオロギの声と月の光を愛しむ様子が伝わります。
『源氏物語』の原稿が消失
焼けはてし彼処此処(ここかしこ)にも立ちまさり心悲しき学院の跡
十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰
この時の与謝野晶子の落胆の大きなことは、勤務先の文化学院に保管していた『源氏物語』の原稿1千枚が火災で焼けてしまったことでした。
焼けてしまった建物は他にもあるが、やはり原稿があった学院が焼けているのが悲しいということです。
1千枚は相当の嵩とはいえ、「草稿の跡あるべしや」というのですから、口惜しかったに違いありません。
「源氏物語」の訳本はそれからさらに年を重ねた昭和14年に刊行されました。
与謝野晶子について
与謝野晶子(1878〜1942)
明星派の代表的な歌人。旧姓と名前は鳳(ほう)晶子。堺市生れ。堺女学校卒。
与謝野鉄幹の妻。新詩社の雑誌「明星」で活躍。大胆な恋愛を歌った歌集「みだれ髪」で一躍名を知られるようになる。生涯で5万首もの短歌を詠んだといわれる。訳本に「源氏物語」。