新しき年の始めに思ふどちい群れて居れば嬉くもあるか 万葉集の新年詠の有名な和歌の一つ、道祖王作の短歌をご紹介します。
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新しき年の始めに思ふどちい群れて居れば嬉くもあるか
現代語での読み:あらたしき 年のはじめに おもうどち いむれておれば うれしくもあるか
作者
道祖王(ふなとのおおきみ) 19・4284
現代語訳
新年の初めに、気の合う者同士が集まっているのは、なんとうれしいことだろうか
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語句と文法
・【思ふどち】[連語]気の合った者どうし。 親しい者どうし
・い群れて…「い」は接頭語 「群れて」が述語
・嬉しくもあるか…「か」は詠嘆で疑問ではない
解説
こちらは、本当の新年詠として、万葉集の和歌の中でもよく参照される作品です。
天平勝宝五年正月四日、石上朝臣宅嗣(いそのかみのあそんやかつぐ)の家で祝宴のあった時、大膳大夫道祖王(ふなとのおおきみ)という人が披露した歌です。
「い群れる」というのは、親しい友達皆が集まって、という意味で、これも雰囲気があります。「い」というのは接頭語です。
この「うれしくもあるか」の「…あるか」は万葉集で多く見られる表現です。
「うれしい」とか「さびしい」と言い切らずに、「もあるか」とすることで、「うれしい」を長引かせる効果があります。
なお、「もあるか」の「か」は詠嘆であり、「もあるか」といのが、疑問や可能性等ではなく、「うれしいことだ」という意味です。
斎藤茂吉の評
石上朝臣の家で祝宴のあった時、道祖王(ふなとのおおきみ)がこの歌を作った。初句「あらたしき」で安良多之の仮名書の例がある。この歌は平凡な歌だけれども、新年の楽宴の心境が好く出ていて、結句で「嬉しくもあるか」と止めたのも率直で効果的である。
それから「おもふどちい群れてをれば」も、心の合った親友が会合しているという雰囲気を籠めた句だが、簡潔で日本語のいい点をあらわしている。― 斎藤茂吉著 万葉秀歌 下 (岩波新書) より
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雪との関連
万葉集の研究・解説書の『万葉の歌人たち』によると、この歌の訳は、その時の石上卓にあった「雪」を前提としており、「うれしくもあるか」は、「雪がなくても、仲間があればうれしい」という意味であるとの説明です。
この点は、この歌を専門的に解釈する場合は、必ず注意するべき点であります。
この歌は三首の中の最後の1首の歌で、その前の2首の歌は
言繁み相問はなくてに梅の花雪にしをれてうつろはむかも 石上宅嗣
梅の花咲けるが中に含めるは恋ひや隠れる雪を待つとか 茨田王
であり、それぞれ、この家にあった「梅」と、そして「雪」を題材としています。
雪は当時の習慣として「新しき年の初めに」などの新春詠には、その年の豊穣のしるしとして必ず詠まれるべきものであったようです。
つまり、正月の雪はおめでたいものであったので、歌に必要であったが、実際には、雪は降っていなかったので、前者の石上は、妹の姿を梅に仮託、イメージとしての雪をそれに組み合わせています。
一方、茨田王の方は、「雪を待つ」として、そこにはない雪を加えて、そこに見られた当時としては貴重な「梅」と「雪」の組み合わせを歌に達成しています。
それに対して、冒頭の掲出歌である、「新しき年の始めに思ふどちい群れて居れば嬉くもあるか」は、「雪はなくても」の意味が、隠れていると見るべきであるというのが、「万葉の歌人と作品」の説明です。
本来ならば「新しき年の初めに…雪」または「梅」と続くべきところを、雪がないために、「思ふどち=気の合う同士」として、梅と雪の取り合わせではなく、そこに集まった人たち複数に焦点が当たることとなったのです。