与謝野晶子の短歌で有名な晶子の代表作、「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」の「君」は、誰のことを指すのでしょうか。
私は長らく、特定の人ではなく、世の一般の人に向けてなのだろうと思っていましたが、「君」は与謝野鉄幹との説が有力であるというのを聞いて驚きました。
この短歌の背景を探ります。
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「道を説く君」与謝野鉄幹説
与謝野晶子は堺の菓子屋の老舗に生まれました。晶子21歳の時、「明星」を知り夢中になります。そして、明治33年に与謝野鉄幹に会い、山川登美子との三角関係となります。
とはいえ、鉄幹には妻があり、晶子を諦めさせようと諭したのであったのかもしれません。
それがつまり「道を説く」鉄幹の姿なのではなかったかとの説です。
晶子にはそれがあまりに因襲になずんだ考えとして飽き足りなかった。
そこで鉄幹に向けて詠んだ歌、というのが一つの有力な説とされています。
与謝野晶子本人は「道学者諸君」
晶子本人は、これを「道を説く君」は、「道学者諸君」という意味だと注に記し、自身では誰か特定の人物だとは述べてはいません。
そのため、最初から鉄幹とされているわけではなかったようです。
与謝野鉄幹と結ばれるまでの短歌はこちら
住職の河野鉄南説
もう一つは、与謝野鉄幹に晶子を引き合わせた、紹介者、河野鉄南であるとの説です。
晶子はその歌について、実際にも、鉄南に下のように書き送っています。
じづはさきにご質問にあひし、やははだの歌、何と申し上げてよきかとおもひ、今日になりしに候。海渓様もかの歌身ぶるひせしと申越され候かし。こののちはよむまじき候。兄君ゆるし給へ
自作の歌を若干卑下した挙句、詫びを書き送っていますので、鉄南本が自分のことと勘違いしたか、あるいは、鉄南本人のことかとも思えなくもありません。
住職ですので、職業柄「道を説く」という言葉があれば、自分のことかと思っても当然とも思います。
手紙の話題はすぐ鉄幹のことへ
しかし、上の詫びを描いた後すぐ、同じ手紙の中で、晶子は鉄幹と会ったことを打ち明けています。
これは兄上だけに申し上げるのに候 まことまこと誰にも誰にももらし給うな
私この五日の日、与謝野様にひそかにあひ候 誰にも誰にももらし給うな そは山川の君と二人のみひそかにあひにし候 兄君にのみに申すなり 誰にも誰にももらし給うな
と何度も念を押しながら書いています。
このとき「会った」というのは、もちろんただ顔を合わせただけではなく、鉄幹に恋心を抱いたということなのでしょうが、やはり若い女性として、誰かに話したい気持ちが抑えられなかったとみえます。
さらにこの手紙においては、上の打ち明け話のすぐ後、晶子は「かの君中国にて不快なることのありしまま、この度は誰にも会わで帰京するとの給い候」と続けています。
その「不快なること」とは鉄幹の家庭事情であり、妻、林滝野の父から離縁を申し渡されたということで、最初の出会いの頃、既にそのようなことにまで晶子が関心を持っていたのも間違いありません。
道学者か鉄南か鉄幹か
つまり、恋愛をする女性の心理として、鉄南宛てに手紙を書いていながら、頭の中は鉄幹のことでいっぱいなので、鉄幹のことばかりを書いている。
そう思って歌の方、「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」を改めて読んでみると、これは手紙と同じことで、ひとりの相手のことが関心を占めているなら、「君」はそのただ一人、鉄幹のことに違いないとも思います。
鉄南は住職ですから、いくらなんでも住職を揶揄したとはとても思えません。しかも「柔らかい肌にふれてみよ」との挑発とも思えるような内容です。
そうなると、やはりこの「君」は鉄幹のこと以外にはないように思われます。
与謝野鉄幹との関係が深まったのはいつ?
与謝野晶子の属した浪漫派とその周辺については、資料が手元にないのでわからないのですが、続けて以下に憶測を述べてみます。
手紙の中に述べている「浜寺の歌会」の時に鉄幹と晶子、山川登美子は倒置に一泊をした。その日に、不倫の関係になったと書いている人やサイトもあります。
ただ、歌を時系列的に読むと、それはもう少し後ではないかと思います。
鉄幹も妻子がいる。初めて会った時に、いきなり深い関係になったとは到底思えません。
最初の出会いをきっかけに、晶子は鉄幹を慕う気持ちを抑えられなくなった。にもかかわらず、鉄幹には妻がおり、晶子が思いを伝えても、それ以上進展のしようもない。
「やは肌の」は、おそらくそういう時期に詠まれた作品ではなかったでしょうか。