万葉集には、本歌取り以前に、一部の文言がそっくりの歌が多く見られます。
これらは「類歌」と呼ばれますが、なぜ、このような作り方があるのかを解説します。
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万葉集の類歌とは
万葉集には、一部の文言がそのまま繰り返し使われる、類歌が多く見られます。
以下はその類歌のわかりやすい例をあげます。
万葉集の類歌の例
夏野行く小鹿(をしか)の角の束の間も妹が心を忘れて思へや (巻4 502 柿本人麻呂)
大伴の 美津の浜なる 忘れ貝 家なる妹を 忘れて思へや (巻1 68 身人部王 みひとべのおおきみ)
あらたまの年は果つれど敷栲の袖交へし子を忘れて思へや(巻11 2410 作者不明)
見る通り、三首とも「忘れて思へや」という結句が、共通しています。
これは本歌取りではなくて、類歌と呼ばれています。
万葉集の類歌の理由
これについて、万葉集の解説では下のように説明があります。
この類歌という現象は、単に他人の作を模倣した結果だというよりも、むしろ、歌をつくるために表現の類同的な型に即したとみる方が、実態にあっているでしょう。
すなわち、定型律が歌を詠みやすくする形式であるのと同じように、詠歌のための形式、型であるとみられるのです。
短歌の57577と同じように、上の例だと「忘れて思へや」に添った歌が自発的に生まれているということでしょうか。
また、この解説者は、類歌が個性を際立たせるとして、下のように
上の人麻呂の歌は、いくつもの点で他の歌々と類歌関係にありながら、きわだった個性を発揮しているでしょう。
どんなに優れて個性的な歌といえども他との共通性をもっている、逆にいえば、他との共通性を基盤とすることによってかえって個性的な抒情性をつくり出す、これが「万葉集」の特徴になっていると考えられます。
万葉集の集団性
また、「万葉集」を、一つの集団のまとまりの歌群として、下のような考えもあります。
視点を変えていえば、集団によって個別性が支えられている、ということにもなります、なぜなら、似たりよったりの類歌の言葉自体は、個別的ではない集団の言葉だからです。
この集団性は、万葉集の一つの独特な特徴とも言えます。
この時代の和歌は、特定の歌人だけでなく、大勢の人々によって担われていたことは、厖大な分量の作者不明歌の存在によってわかります。そして、その和歌をどのように表現するかという点においても、集団と個別とが緊密にかかわっているのです。これこそが「万葉集」の世界なのです。
以上『万葉集入門』(鈴木日出男著)から、万葉集の類歌とその特徴についての手掛かりを記しました。
万葉集には他にもたくさんの同じフレーズの繰り返しが見られます。それを探すのもまた万葉集を読む楽しみの一つです。