「大といふ字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり」、石川啄木『一握の砂』の短歌代表作品にわかりやすい現代語訳をつけました。
歌の中の語や文法、句切れや表現技法と共に、歌の解釈・解説を一首ずつ記します。
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大といふ字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり
読み:だいという じをひゃくあまり すなにかき しぬことをやめて かえりきたれり
作者
石川啄木 『一握の砂』
現代語訳と意味:
「大」という字を百を越えるくらい、砂浜の砂の上に書きに書いて 死ぬことを止めて帰ってきた
心に重いものを持つ作者が、海辺の砂浜の上に「大」という字を書きに書いて、それが100を超えたあたりで、ふっと心境の変化があり、死のうと思っていた心の痛みがやわらげられた、そういう情景を詠ったもの。
語の意味と文法解説
あまり…… 超えるくらいに
来れり…… 「来」で「きた」の読みになる。
・「来る」+助動詞「り」
・意味は「来た」
来たれりの品詞分解
きたれ:ラ行四段活用動詞「きたる」の已然形
り:完了の助動詞「り」の終止形
句切れとその他表現技法
句切れなし。
解説と鑑賞
明治43年作。
『一握の砂』冒頭より8首目の歌。この一連は、いずれも「砂」「砂山」を題材にしている。
「砂」が題材の一連
東海小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる
頬につたふ なみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の砂を指もて掘りてありしに
ひと夜さに嵐来きたりて築きたる この砂山は何の墓ぞも
砂山の砂に腹這ひ初恋の いたみを遠くおもひ出いづる日
砂山の裾(そ)によこたはる流木に あたり見まはし物言ひてみる
いのちなき砂のかなしさよ さらさらと握れば指のあひだより落つ
しっとりと なみだを吸へる砂の玉なみだは重きものにしあるかな
大という字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり
「砂」の差し示すもの
この「砂」の差し示すものは、何か。
歌集のタイトルは『一握の砂』であるが、この『砂』に示される矮小なものは、啄木が実は好むところではなかった、「短歌」のことである。
『一握の砂』を構成する主要な歌は、一晩にして作られた100首の歌であった。
「砂」というのは、その、啄木にとっては不毛と思われる、それゆえに不満足に感じられる短歌そのものの文学形式を指すと思われる。
『一握の砂』冒頭の一連の「砂」の変遷
「われ泣きぬれて蟹とたはむる」の対象物は、「蟹」であるが、一晩にして、それなりにおもしろく歌を作ったこと。啄木にとっては、歌は「たわむれ」の対象であった。
「一握の砂を示しし人」というのは、実は啄木自身のことだろう。
「錆びしピストル」は、「掘り当てる」ように心の奥から探し求めた歌の題材であり、かつ「ピストル」には、啄木の攻撃性、言い換えれば、死なずに残っていた文学的野心も感じられる。
「この砂山は何の墓ぞも」の「短歌」は啄木にとっての「墓」と形容するべきものであり、ポジティブな意味での作品ではなかったのだ。
しかし、「いのちなき」、すなわち、生命を持たない、そのような価値を持つとは思われないと、短歌の言葉を卑下しながらも、啄木にとって、その夜の短歌は「さらさらと握れば指のあいだより落つ」ような無限の想念でもあった。
「大といふ」の短歌の内容
この歌「大といふ字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり」も、そのコンセプトの流れの中で、改めて考えてみることができる。
「百」というのは、もちろん、その夜の短歌の数「百」である。
「大」は二重の意味で、啄木の欲していたものであったろう。すなわち、「偉大な、大きなものになりたい」という願いは啄木の根本にあるもので、さらに、自分は「偉大な人物である」という露骨な思い込みがあった。
文学を志す人は、多かれ少なかれ誇大な自己というものや、一般的な自負心を持っていて当然だが、啄木にはそれがもっとストレートに、違和感なく感じられていたようだ。
しかし少なくとも、その夜の啄木は、決して精神的に健康ではなく、度重なる挫折にうちひしがれており、ふと詠み始めた短歌の連鎖に実際にも「死ぬことをやめて」、生き返ったような心持ちがしたに違いない。
簡単に言うと、短歌の表側は、心に重さを抱えた作者が砂浜に行き、浜辺の砂の上に、「大」という字を、書きに書き、100戸を超えたところで、何らかの心境の変化があった。
「帰り来れり」は没我の状態からの目覚め
「帰り来れり」というのは、字を書く、すなわち歌を詠んでいる時の没我の心境から、書き終えてふと己を取り戻したと考えることもできる。
「帰り来れり」の淡々とした結句とその転換は、実際の死出の旅の帰宅ではなく、その一瞬のトランスからの目覚めを表す方に適した言葉だろう。
しかし、少なくてもこの時に、啄木には歌を量産して詠み終えたことのカタルシスがあったはずだが、啄木はそれを喜びとして歌に詠み込んではいない。
「死ぬことを止めて」の意味
ただ、それを置換した「死ぬことを止めて」の乾いた表現があるばかりである。
しかし、「死ぬことを止めて」は、単なる比喩とも思われない。実際にも啄木は、歌を詠むことで救われてもいたのだろう。
そして、そのことをもっと深く自覚していれば、啄木の短歌は、「砂」ではないもっと別なものへと変わっていっただろうと思うのだ。
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石川啄木「一握の砂」の短歌代表作品 現代語訳解説と鑑賞