よく笑ふ若き男の死にたらばすこしはこの世さびしくもなれ 石川啄木  

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よく笑ふ若き男の死にたらばすこしはこの世さびしくもなれ 石川啄木

2020年6月9日

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よく笑ふ若き男の死にたらばすこしはこの世さびしくもなれ

石川啄木『一握の砂』の短歌代表作品にわかりやすい現代語訳をつけました。

歌の中の語や文法、句切れや表現技法と共に、歌の解釈・解説を一首ずつ記します。

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よく笑ふ若き男の死にたらばすこしはこの世さびしくもなれ

読み:よくわらう わかきおとこの しにたらば すこしはこのよ さびしくもなれ

現代語訳と意味

よく笑う若い男であるこの私が死んだならば、少しはこの世の寂しくもなってくれよ

句切れ

・句切れなし

語句と表現技法

・よく笑ふ若き男」は啄木自身のこと

・死にたらば・・・「たり+ば」 「たり」は過去の助動詞 「ば」は仮定

・この世さびしくもなれ・・・「世」の後の助詞が省略されている。

「なれ」は断定の助動詞「なり」の命令形

解説と鑑賞

石川啄木の第一歌集『一握の砂』の冒頭の章「我を愛する歌」にある作品。

「若き男」とは啄木自身

「よく笑う若き男」というのは作者啄木が自分を指して言った言葉。

笑いについては啄木には、そのような一面もあったらしい。そのような一面をことさらに取り上げた上で、その朗らかさやが世の中から消えたなら、という仮定につなげている。

「少しは」には、自分の死への過小評価が含まれる。すなわち、自分が死んでも誰も寂しがらないだろうという省略があるのだが、それを打ち消すのが「少しは」であり、作者のささやかな望みであることが見て取れる。

自分の不在が、周囲の人に寂しさをもたらすものであってほしい、自分は必要な人間だという思いの裏返しが作品の元となっている。

「死」を扱いながら、むしろ自分を「若き男」として客観視した時に、その人好きのする面を肯定的に取り上げているのである。

「涙」の叙情から始まる『一握の砂』

「一握の砂」の冒頭は、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣なきぬれて蟹かにとたはむる」「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」と啄木の悲しみや苦しみは、「涙」という抒情性を強調して始まる。

そして、歌集が進んでくると「高きより飛びおりるごとき心もてこの一生を終るすべなきか」と死を示唆する歌が出てくる。

この辺りから、歌集の初めの叙情性は消えて、次第に生の声が啄木の歌には表れてくるといえる。

「死」の想念の登場

「人を讃めてみたくなりにけり」の己の利己、「非凡なる人のごとくにふるまへる」という自分の平凡さへの言及、「実務には役に立たざるうた人」という歌人としての自分の卑下などに交じって現れるのは、「死」という言葉と、その死への直接的な傾斜である。

それと共に、歌の上でも気取りやてらいがなくなって、率直な「大いなる彼の身体が憎かりき」というような、具体的な物事の提示と共に生の声が叙情にまさってくる。

「死ぬことを持薬(ぢやく)をのむがごとくに」というのには、啄木の中での「死」の位置がよく表されているだろう。

ここでの「死」は最後の逃避の手段だろう。

「死ね死ねと己を怒り」と、自分への叱咤、そして死にかねている自分を「かの船のかの船客(せんかく)の一人にてありき」とたとえる。

後者はおそらく「さまよえるオランダ人」からの連想で、「死」に関連して、「永遠に船に乗り続けていなければならない」生のアレゴリーを想起している。

創作との関連

この歌について、創作過程との関連の角度から考えてみよう。

この歌の前には「目の前の菓子皿などをかりかりと噛みてみたくなりぬもどかしきかな」という歌がある。

これは実際目の前の菓子皿のことだろう。そして、最初の頃の歌に比べて、後半になるほど瑣末主義がまさってくるのも特徴である。

啄木は大半の歌を一夜にして書いたというので、それに沿って考えるとすると、「死」はこの一連の作業の終わりでもあるだろう。

つまり、多量の連想とそれによる作品にどう終わりをつけるかということが、死の連想と並行しているのだ。

作品とクロスする「場」

そのように述べると、では、この「死」は創作なのかと聞かれそうだが、そのように単純ではない。

短歌だけではなくて、作品を作っているときには、作品の中の場、例えば「東海の砂浜」といったシーンは、作者が今いるところと微妙にクロスする想念から成り立っていることが多い。

啄木の中で、最初の歌群の叙情を離れて、一連の作品の終焉が意識され始めた時に、それとパラレルに、啄木の中にある「死」に光があたったのだろう。

本当に死ぬことを考えている人は歌を詠んだりはしないし、死ぬことを考えたことがない人は、歌の中に死の想念もまた現れない。

おそらくはこの歌を呼んでいる、夜の部屋の一室の中で、目の前の「菓子皿」と同じく心に見えてくる「死」というのは、そのような契機で啄木の心の中に引き出されたものなのだろう。

『一握の砂』の多数のポートレイト

この作品はたいへんに感傷的な歌なのであるが、そのような「死」についての思いめぐらしの中から生まれた断片であると推察する。

そしてそのその連想の中で、また作者自身の「よく笑う」側面についても引き出されてくる。それもまた「大いなる彼の身体」と同じく、自らを客観視したポートレイトの一つである。

『一握の砂』の中には、これまで出会った人は皆詠まれているのではないかと思うくらい、人物が多い。

家族や友人、同僚はもちろん、これまで出会った惹かれる女性や芸者の類、通りすがりの電車の男など、啄木の思いついた限りの人が登場するようだ。

まるで、アルバムに並べられたような啄木の短い人生の凝縮がここにある。『一握の砂』とのタイトルだが、読みようによっては、この歌集は啄木の自伝でもあるのだ。




-石川啄木
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