秋分の日の電車にて床にさす光とともに運ばれて行く
今日は秋分の日。秋分の日の歌として真っ先に思い出すのは、佐藤佐太郎の作品です。
今日の日めくり短歌は佐藤佐太郎の秋分の日の短歌をご紹介します。
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読み:しゅうぶんの ひのでんしゃにて ゆかにさす ひかりとともに はこばれていく
作者と出典
佐藤佐太郎 歌集 「帰潮」
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— まる (@marutanka) September 23, 2020
この短歌の意味
秋分の日の電車に乗ったところ、電車の床に一面に窓から秋の柔らかく日が差している。その光と共に走る電車に身をゆだねて運ばれていくのだ
この歌の鑑賞
「秋分の日」と最初に置かれていますが、「秋分の日の電車」に特別な意味が感じられます。
彼岸の中日であるということ、それから、昼夜の長さが同じであるということ。
前者は、作者はお墓に行く途中であったのかもしれません。
あるいは、墓参りはせずとも、「彼岸」に思いをはせる日でもあります。
そして「昼夜の長さが同じ」ということには、何となくですが、日差しが秋めいているということの、理由の一つである気がします。
そして、秋分の日は、これから夜が次第に長くなり、季節が移り変わる、その分け目の日、季節の小さな転換点です。
そう思えば、この日差しが貴重であるようにも思われます。秋分の日の光は、明日ではなくて、今日これ限りなのですから。
「運ばれていく」の意味
一首の結句においては、作者は、擬人法にも似て主客を逆転し、述語を受け身の「運ばれていく」としています。
この主語はもちろん作者です。「光とともに」は付随する条件ですが、この光がなければ一首は成り立ちません。
「ともに」の記述に作者が、この日の光に特別な親和性を感じていることがわかります。
光がどのような光なのか、「穏やかな」「あたたかな」といった形容詞は使われていません。
それに代わるのが、「秋分の日」で、「秋の光」とせずに「秋分の」としたところが、この歌の印象的なところでもあります。
佐藤佐太郎の言葉
この歌の電車と光に関して、参考になると思われる佐藤佐太郎の下の言葉があります。
電車が疾走して外景がどんどん移るのに日ざしは動かずにおかれたもののように床に照っているというのである。(佐藤佐太郎『短歌指導』短歌新聞社、1964年、133頁)
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-466.html
上の記載が、この歌の情景を直接指すものかどうかははっきりしていませんが、作者は、おそらく上記のような一種の”現象”を表したかったものと思われます。
仏教の「夕日」
また、仏教では彼岸の夕日について下のような記載があります。
9月にはお彼岸がある。20日に彼岸入り、23日が「秋分の日」で、26日が彼岸明けだ。彼岸は浄土思想に由来する。阿弥陀如来が治める極楽浄土(西方浄土ともいう)は、西方の遥か彼方にあると考えられていた。そのため、真西に太陽が沈む春分・秋分の日は夕日が極楽浄土への「道しるべ」となると考えられていたのである。
あるいは、この歌の「運ばれていく」には、作者の意識はなくても、どこか宗教的な意味合いも含まれているかもしれません。
こちらは参考までにあげておきます。
秋分の日とは
秋分の日
佐藤佐太郎について
歌人。 1926年岩波書店に入社,同時に『アララギ』に入会し斎藤茂吉に師事。写生に立脚する「純粋短歌論」を主張した。
歌集『歩道』 (1940) によって歌壇に地位を確立。 45年から短歌誌『歩道』を主宰。日常生活のなかに題材を求めつつ純粋な抒情性を守る歌風を開いた。。27年歌集「帰潮」で読売文学賞。83年芸術院会員。
佐藤佐太郎の他の短歌
みづからの光のごとき明るさをささげて咲けりくれなゐのバラ
桃の葉はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし
冬山の青岸渡寺(せいがんとじ)の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ
冬の日の眼(め)に満つる海あるときは一つの波に海はかくるる
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佐藤佐太郎の斎藤茂吉解説
きょうの日めくり短歌は、秋分の日にちなむ佐藤佐太郎の短歌をご紹介しました。
それではまた明日!
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