島木赤彦の4つの歌集から、代表的な作品50首を集めてみました。
歌そのものを読みながら、各歌集の特徴と島木赤彦の歩みをたどれれば幸いです。
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島木赤彦の5つの歌集の特徴
島木赤彦には「馬鈴薯の花」「切火」「氷魚」「太虚集」「柿蔭集」の5つの歌集があります。
解説と共に読みたい方は「切火」と「氷魚」までは下の記事にあります。
「馬鈴薯の花」中村憲吉との合同歌集
大正2年、憲吉共にそれぞれの第一歌集となりました。赤彦は千首に近い初期の作品を捨てて明治42年以降の作からを掲載したものです。
短歌をする前は詩も手掛けていたので、その頃の新体詩の影響もあり、後年の作風とは異なる作風から始まっていることがわかります。
「切火」過渡期の初めての単独歌集
「切火」(きりび)は初期アララギのいわゆる「乱調時代」の歌は省かれてはいるものの、生活の変化の大きな時期に作成され、そのような切迫した生活感情の秘められたものとなっています。
長野県からアララギ誌編集を請け負って上京し、その翌年にあわただしくまとめられたもので、赤彦の歌集の中では過渡的なものとも見られています。
「氷魚」赤彦円熟期の歌集
「切火」の後に出た「氷魚(ひお)」は、赤彦円熟期の歌集と言ってよく、安定した歌境において、見方と表し方も確実になっているとされます。
また、赤彦の提唱した「寂寥相」の実現への努力の足取りが見られ、歌境の覚醒期の位置にあると言われています。
特に、大正6年以後の生活詠に後の「寂寥相」につながる優れた作が多く、弟子であった土田耕平は6年以後の歌を読むよう勧めています。
「太虚集」 歌風の確立
「たいきょしゅう」。大正13年刊行の第4歌集。
赤彦の歌風の確立した歌集。張り詰めた緊張感、底を流れる沈痛の調べ、堂々とした自然詠などが、赤彦の歌の大きな特徴をなしています。
斎藤茂吉は「『太虚集』の歌はもはや歌の堂奥に入ったものではあるまいか」と評しています。
堂々としたゆるぎない詠みぶりです。
「柿蔭集」 自然と素朴への回帰
「しいんしゅう」
大正15年刊行の第5歌集で、赤彦の没後に藤沢古実によって編集されました。赤彦最後の歌集となります。
「この歌集でまた一飛躍をしているように思う。『太虚集』の歌風の神韻縹渺(しんいんひょうびょう)がやや詰まって素朴に還ったようにおもえる」(斎藤茂吉)の通り、前の歌集に見られた意志的な緊張が取れ、自然な感情の流れに沿った作風となっています。
島木赤彦の短歌代表作品50首
島木赤彦の代表作品短歌50首は以下の通りです。
「馬鈴薯の花」
げんげ田に寝ころぶしつつ行く雲のとほちの人を思ひたのしむ
夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ
妻も我も生きの心の疲れはてて朝けの床に眼ざめけるかも
日の下に妻が立つとき咽喉(のど)長く家のくだかけは鳴きゐたりけり
雪のこる土のくぼみの一ところここを通りてなほ遠ゆくか
昔見て今もこもらふ歯朶(しだ)の葉の暗がりふかく釣瓶を吊るも
(ここまで「馬鈴薯の花」)
「切火」
月の下の光さびしみ踊り子のからだくるりとまはりけるかも
窓の外に白き八つ手の花咲きてこころ寂しき冬は来にけり
子をまもる夜のあかときは静かなればものを言ひたりわが妻とわれと
むらぎもの心しずまりて聞くものかわれの子供の息終るおとを
雪はれし夜(よ)の街の上を流るるは山よりくだる霧にしあるらし
雪あれの風にかじけたる手を入るる懐の中に木の位牌あり
山門に向ひてのぼる大どほり雪厚くして黒土を見ず
雪深き街に日てればきはやかに店ぬち暗くこもる人見ゆ
ひたぶるに我を見たまふみ顔より涎を垂らし給ふ尊さ
母一人臥(こや)りいませり庭のうへに胡桃の青き花落つるころ
大き炉にわが焚きつけし日は燃えてものの音せぬ昼のさびしさ
うどん売る声たちまちに遠くなりて我が家の路地に霙ふる音
冬の日の光とほれる池の底に泥をかうむりて動かぬうろくづ
わが家に月にひとたび帰りゆくよろこび心寂しくなりぬ
土荒れて石ころおほきこの村の坂に向かひて入る日のはやさ
(ここまで「切火」及び「氷魚」)
「太虚集」と「柿蔭集」
栂の木の木立出づればとみに明し山をこぞりてただに岩むら
はひ松の陰深みつつなほ照れる光寂しも入日のなごり
やまのべに家居し得居れば時雨のあめやはやすく来て音立つるなり
福寿草の鉢を置きおきかふる幼子や縁がはのうへに移る日を追ひて
たえまなく鳥なきかはす松原に足をとどめて心静けき
山道に昨夜の雨の流したる松の落ち葉はかたよりにけり
野分すぎてとみにすずしくなれりとぞ思ふ夜半に起きゐたりける
つぎつぎに過ぎ西人を思ふさえはるけくなりぬ我のこよひは
湖つ風あたる障子のすきま貼り籠りてあらむ冬は来にけり
空すみて寒きひと日やみづうみの氷の裂くる音ひびくなり
高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも
ここにして遙けくもあるか夕ぐれてなほひかりある遠山の雪
あからひく光は満てりわたつみの海をくぼめてわが船とほる
やまさへも見えずなりつる海なかに心こほしく雁の行く見ゆ
みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
亡がらを一夜抱きて寝しこともなほ飽き足らず永久に思はむ
岩あひにたたへ静もる青淀のおもむろにして瀬に移るなり
石楠の花にしまらく照れる日は向うの谷に入りにけるかな
久しくも夕顔の花の咲きつぎて棚にあまれる蔓伸びにけり
谷かげに苔むせりける仆(たふ)れ木を息づき踰ゆる我老いにけり
山道に日は暮れゆきて栂の葉に音する雲は過ぎ行きにけり
みづうみの氷をわりて獲し魚を日ごとに食らふ命生きむため
行き乍ら痩せはてにえるみ仏を己自ら拝(をろがみ)まをす
隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
或る日わが庭のくるみに囀りし小雀(こがら)来たらず冴え返りつつ
信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ
魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思い居り
箸を持て我妻(あづま)は我を育くめり仔とりの如く口開く吾は
我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひ出でて眠れる