島木赤彦

島木赤彦の短歌『切火』『氷魚』歌集の特徴と代表作品・「寂寥相」への歩み

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島木赤彦の短歌、初期の歌集から代表作とその周辺を読んでいきます。
島木赤彦はアララギの歌風を確立させ「鍛錬道」などの文学観を述べて普及させた、当時のアララギの経営者でした。

島木赤彦の歌集は全部で5冊ありますが、「切火」は第二歌集、「氷魚(ひお)」は第三歌集です。
第一歌集の「馬鈴薯の花」は中村憲吉との合同歌集なので、「切火」は赤彦単独の最初の歌集となります。

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歌集「切火」とその特徴

「切火」は初期アララギのいわゆる「乱調時代」の歌は省かれてはいるものの、生活の変化の大きな時期に作成され、そのような切迫した生活感情の秘められたものとなっています。

長野県からアララギ誌編集を請け負って上京し、その翌年にあわただしくまとめられたもので、赤彦の歌集の中では過渡的なものとも見られています。

斎藤茂吉は「赤彦全体の業績から見ればむしろ低いところに位置するであろうが、赤彦の歌の発育史の上から見れば極めて重要な位置を占めている」と言います。

「切火」の代表作

歌集「切火」より代表作を挙げます。

夕焼空焦げきわまれる下にして氷らんとする湖の静けさ


現代語訳

焦げたようにあかあかと夕焼けの輝きの極みにある空の下にあって、今まさに凍ろうとしている湖の何という静けさよ

出典
諏訪湖 大正2年作

鑑賞と解釈

燃えるような夕焼の空の下にあって、音もなく静かに凍っていこうとする湖との二つの雄大な自然の対比が鮮烈な印象を与える。

「夕焼け空焦げきはまれる」は大正14年に出した自選歌集「十年」に載せる際、島木赤彦自身が上句を「まかがやく夕焼け空の」と改めてしまった。

これについては、前の方が評価が高いことが多く、当ブログを含めて引用される際は、ほぼ原作でなされることになっている。

前作の「ダイナミズム」(宮地伸一「歌言葉雑記」)を好むとするものと、「感覚的表出の過剰」(小谷稔「アララギ歌人論」)の批判と両方があるようだ。

 

人に告ぐる悲しみならず秋草に息を白じろと吐(つ)きにけるかも

現代語訳

人に言えるような悲しみなどではないのだ。それゆえに、秋の草に向かって、寒くなって白くなった息を吐くのだよ

出典
山の国 大正2年 御牧ケ原

鑑賞と解釈

人に告げられない悩みを草の原にあって言葉にしないまでも息をつく。その息が白いことでそれを自らの「悲しみ」として見つめた場面。

この一つ後の歌は「孤(ひと)りなる死にをもすらんと嘆きつつ錆び紅(あけ)の草に胡坐をなせり」というのがある。
同僚の教師である中原静子との恋愛の悩みが尾を引いていたのだろう。

斎藤茂吉の評

この歌のよいところは混乱してないで極めて単純にしかも単なる輪郭的でなく、心が集中されている点にあると思う。

 

日の下に妻が立つとき咽喉(のど)長く家のくだかけは鳴きゐたりけり


現代語訳

外に出て太陽の日差しの下に妻が立った時に、庭の鶏が長く喉を伸ばして時の声をあげたのだ

出典
山の国 大正2年 国を出る歌

鑑賞と解釈

「くだかけ」は鶏のこと。
大正三年、赤彦はアララギの編集のため上京して単身移り住む。その家を出て出立する折に詠んだ歌。
一連の他を見ると、部屋から外に出て見送る妻、道の途中まで見送ってきた子供と別れるまでを詠んでいることがわかる。

この歌のアララギ歌評

土岐善麿:「集中僕の好きな一つである。『日の下』いといい、『咽喉ながく』といいやはり作者の敏感と凝視から得た尊いものである」
前田夕暮:渾然としていささかの間隙なくうたわれている
茂吉:この歌集の中の傑作であろうと思われる
古泉千樫:明るい苦しさ哀しさがよく表れている。傑作


一連の他の歌

「国を出る歌」
古家の土間のにほひにわが妻の顔を振りかへり出でにけるかも
日の下に妻が立つとき咽喉長く庭のくだかけは鳴きゐたりけり
三人(みたり)の子だまりてあとにつき来る海の朝あけは明るぐるしも
幼な手に赤き銭ひとつやりたるはすべなかりける我が心かも
灰の上に涙落としてゐし面わとほどほに来て思ほゆらくに

これより後の歌を一首ずつ。

雪残る土のくぼみの一ところここを通りてなほ遠ゆくか

上三句を茂吉と憲吉がほめたと言う。

昔見て今もこもらふ歯朶(しだ)の葉の暗がりふかく釣瓶を吊るも

「釣瓶」は「つるべ」。

斎藤茂吉の評

いい歌である。苦心のあとも承知できる。『歯朶(しだ)の葉の暗がりふかく釣瓶を吊るも」は佳句である。

歌集「氷魚」とその特徴

「切火」の後に出た「氷魚(ひお)」は、赤彦円熟期の歌集と言ってよい。安定した歌境において、見方表し方も確実になっている。また、赤彦の提唱した「寂寥相」の実現への努力の足取りが見られ、歌境の覚醒期の位置にあると言われる。

特に、大正6年以後の生活詠に後の「寂寥相」につながる優れた作が多いとされる。一首ずつ。

夜おそくわが手を洗ふ縁のうへに匂い来(きた)るは胡桃の花か

大正4年「妻と子」、一時帰郷の折の歌。この一連はこの年の佳作とされる。

長塚節一周忌
足曳(あしびき)のやまの白雪草鞋はきて一人い行きしひとは帰らず
白雲の出雲のやまの鐘ひとつ恋ひて行きけむ霜の山路を
山上の日光(ひかり)は寂し栂(つが)の樹の黒き茂りに入り行かむとす

長塚節を送って一年。
さらに、この歌集の一番の大きな出来事は長男政彦の急逝だった。政彦は先妻との間の子。

子をまもる夜のあかときは静かなればものを言ひたりわが妻とわれと
むらぎもの心しずまりて聞くものかわれの子供の息終るおとを
顔の上に涙おとさじとおもひたりひたぶるに守(も)る目をまたたかず
幼きより生みの母親を知らずしていゆくこの子の顔をながめつ
田舎の帽子かぶりて来し汝れをあはれに思ひおもかげに消えず

死因は盲腸炎で、はじめ楽観していたのが腹膜炎を起こして十七歳で生を終える。

木下利玄の評:

この一首(「子をまもる」)はなかんずく澄んでいる。絶唱である。よくもこれだけ感情の誘惑を避けて、正面から見つめたものと思う。人に厳粛な気を起こさせる。自分もたびたび子供を失って、その悲を知っているだけにおどろく

雪はれし夜(よ)の街の上を流るるは山よりくだる霧にしあるらし
おのが子の戒名もちて雪ふかき信濃の山の寺に来にけり
晴るる日の空にそびゆる山門より雪のまひ散る風絶えまなし
雪あれの風にかじけたる手を入るる懐の中に木の位牌あり
山門に向ひてのぼる大どほり雪厚くして黒土を見ず
雪深き街に日てればきはやかに店ぬち暗くこもる人見ゆ

「ぬち」[連語]格助詞「の」に名詞「うち(内)」の付いた「のうち」の音変化。
「…の内」。

「実相観入に拠って生を写したのである」と茂吉の評価したのは、1首目と3、4、5首目。

斎藤茂吉の評:

句々緊張していて毫も浮滑(ふかつ)のあとを見ない。中に鎮痛の響きを蔵していて、あらわに有頂天浅薄主観の暴露するがごときことがない。実相観入に拠って生を写したのである。

 

「高木の家」(下諏訪町高木の養家の家)
母一人臥(こや)りいませり庭のうへに胡桃の青き花落つるころ
大き炉に我が焚きつけし火は燃えてものの音せぬ昼のさびしさ
うどん売る声たちまちに遠くなりて我が家(や)の路地に霙(みぞれ)ふる音
日かげ土かたく凍れる庭の上を鼠走りて蔵に入りたり
冬の日の光とほれる池の底に泥をかうむりて動かぬうろくづ

「うろくづ」とは魚のこと。

斎藤茂吉の評:

赤彦君の作のうちの佳作でアララギ大正7年中の佳作ではあるまいか。

このあとも帰郷の題材の歌が特に優れていることを、茂吉が挙げている。

「氷魚」を制作したこの時期は、離職と転居、長男の死と自らの病、さらに妻子を呼び寄せて、慣れない東京生活で家族が犠牲になったことなどで、生の悲哀に深く触れることで、赤彦の感傷的資質が素地になり、歌境が深められたとみられている。

島木赤彦は、そのような生の困難の中に作歌と結社を維持した点でも、さらに自身の作歌においてももちろん、一貫して努力の歌人であったと言えるだろう。

島木赤彦の経歴

1876-1926 明治9年12月17日生まれ。長野師範卒。故郷長野県の小学校教員,校長をつとめながら、伊藤左千夫に学ぶ。大正3年上京し、斎藤茂吉らと「アララギ」を編集。「万葉集」を研究し、作歌信条として写生道と鍛錬道を説いた。大正15年3月27日死去。51歳。本名は久保田俊彦。旧姓は塚原。号は柿の村人など。著作に「歌道小見」歌集に「切火」「氷魚(ひお)」「太虗(たいきょ)集」等。

 

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