「韻律の美を求めて」水原紫苑の項。
歌のリズムについての独特の鋭敏な考察がある。
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茂吉の赤茄子の歌
について、水原紫苑は
茂吉の韻律には、晶子とは異なる特徴がある、すなわち、一首のうちに幾たびも躍り上がるダイナミックなリズムである。「赤茄子の」の一首を見ても明らかだ。初句「赤茄子の」で弾みながら入り、「腐れていたるところより」の若々しい跳ね方ののち、「幾程もなき」でやや鎮静して「歩みなりけり」でまた弾みをつけて終わる。終息するのではなく、結句に向かってジャンプしてゆく独特の力感である。
この本の中では口語や句切れといった文法上の特性について述べられることが多かったが、語と節のかもしだすリズムについて述べられた、水原のこの項はたいへん興味深い。
もう一つ同様に、
「あやしみて人は思ふな」の一首などは、典型的に韻律の魅力で成り立っている歌だ。「あやしみて人は思ふな」に小さな山があり、「年老いし」で少し沈んで「ショオペンハウエル」で高らかに昇りつめ、「笛ふきしかど」がまた小さな山になる。
もっともこの「躍り上がる」「跳ね方」「鎮静」といった、各節の強勢(アクセント)を含む抑揚を感得するのは、資質に恵まれた人以外はいくらか難しい気もする。
斎藤茂吉の結句の強さ
継いで結句の強さ他について。
これは果たしてはたして茂吉が親しんだ万葉の韻律の再現なのか。それも否定はできないが、結句のアクセントの強さは古調というより、茂吉固有の体内リズムの発現であろうと思われる。
すなわち、三十一音すべてをポジティブに生かして前へ前へとエネルギーを噴出しないではおかない茂吉の身体の必然なのだ。韻律を仮に陽と陰とに分けて考えてみれば、茂吉のリズムはあくまで陽のままに他者に向かって奔流する。
水原は「陰」のリズムを持つ歌人として釈超空、葛原妙子、牧水の一部を挙げ、加えて白秋の韻律については「何よりもまず音楽である」と言う。
上記はあくまで韻律についてであって、歌の内容そのものではないのだが、優れた歌人は既に韻律に意識を払い、歌の意味内容ばかりでなく、それが彼らの歌の主要な要素を成している。
つまり韻律と歌の内容が不可分に一つの歌境を形成している。いずれにしてもここで言われている「韻律」とは定型五七五七七のリズムとして周知のものと同一であるというほど単純ではないのだ。