短歌と日本人Ⅲ「韻律から短歌の本質を問う」岩波書店より。
この一冊はおもしろい。教科書的に一律ではなく、各歌人の捉えるところが様々に述べられている。抜粋する。
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以下は馬場あき子。
三句に枕詞を置くことによって、この歌の上下の句の関わりは密接になり、上二句は言いさしたまま切れた余情を保ち、「むば玉の」という枕詞を介して、下句に柔らかにつながっていく。
そして、この「むば玉の」は「我黒髪」へと続けて読まれるはずのことばだが、必ずしもそう読むとは限らない。家人はしばしば、「かかれとてしも」の言いさしを念頭に心得ながら、あえて、「かかれとてしもむば玉の」までを読んで、下にくるべき 「黒髪」を読みあげる前に大きな詠嘆の空白を取ることを好む。啄木が切れていない言葉を切ってみせたと同じことを、切れているのに切らず、切れていないのに切る。そこに微妙な言葉の味わいが生まれることを知っているからである。それは「五・七・五・七・七」の韻律感覚が、既に体に染みいっているところから生まれるものだろう。
三句に置かれた「存へば」は意味的には下句につづくものであるが、先の遍照の歌のように、つづかない二句につづけて三句切れで詠むと「存へば」に深い思索の思い入れが加わる。また、二句で切って、「存へば」を下句にかかる読みの中で、「存へば忍ぶることの 弱りもぞする」と、四句に小さな切れを入れると、「忍ぶること」への思い入れの心がにじむ。このように、句切れは、感動の在りかを示す空白として、さまざまな<読み>の工夫と共にあったことも忘れてはならない。そのことが歌詠みの韻律論を複雑にもし、豊饒にもしてきたのである。
いわば、句切れのもたらす韻律について。最初に啄木と釈迢空による表記とその読みの指定への解説がある。
冒頭は鴨長明の「無名抄 深草の里」部分。いずれもとてもためになる。