この本の最初の方二箇所に短歌における「時間的な広がり」について触れられた箇所がある。
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪はふりける 赤人
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ 実朝
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それらに対する子規の弁と作品。
歌は全く空間的趣向を詠まんよりは少しく時間を含みたる趣向に適せるが如し。
時間的の短歌に名作多きは此故に候。
いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす
夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがねぬ我がいのちかも
薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ
いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ
子規の場合は、時間は命そのものだったことがよくわかる。
そして、季節というのは限局的な意味ではなく、相対化された時間であり、その語自体が時間の移ろいを含むものだということにも改めて気づく。