「アララギの背梁」大辻隆弘より。
この項をおもしろく読んだ。同本より斎藤茂吉の破調の歌について書かれたところを紹介します。
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短歌の破調とは
短歌のは蝶とは何かというと、いわゆる五七五の定型には当てはまらないものの、破調ながらのリズムを保ったものを抜粋してある。単純な字余り等ではない。
大辻氏は茂吉の破調の採択を、「瞬間的により大きな新しい器を作り、それと取り替えてしまう」と表現しているが、新しい律動の生成といってもよいような「破調」でばかりである。
また、憶えている限り、佐太郎にも茂吉の破調に関しての、このような取り上げ方はなかったように思う。
斎藤茂吉の破調の歌
釣橋のまへの立札人ならば五人づつ馬ならば一頭づつといましめてあり『たかはら』
夜をこめて鴉いまだも啼かざるに暗黒に鰥鰥(くわんくわん)として国をおもふ『のぼり路』
「鰥鰥」は眼が冴えて眠れないさまであるという。
モナ・リザの唇もしづかなる暗黒にあらむか戦(たたかひ)はきびしくなりて
『のぼり路』より
これは戦時中ルーブル美術館からドイツ軍の接収を逃れて疎開のため、梱包されたモナリザの画への想像という。
富みたるとまずしきと福(さいわい)と苦(くるし)みとかたみにありとひともうべなふ『白桃』
ここで茂吉が漏らしたこの感慨は、人生をある程度歩んできたものなら誰しもが感じる平凡で俗っぽいものにすぎない。が、のこようなため息を漏らすような五音の連なりの中に置かれると、それが断然、人生の究極の心理を点いた哲学者の箴言のように感じられてくるから不思議だ。(大辻)