万葉集「寄物陳思」の表現様式 なぜ短歌には物や景色が詠まれるのか   

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万葉集「寄物陳思」の表現様式 なぜ短歌には物や景色が詠まれるのか 

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寄物陳思とは万葉集の作歌方法の類型の一つです。

短歌や和歌には多く季節の物や風景、あるいは身近な対象物が詠み込まれます。

詩歌というのは、そもそも物を詠むものではなく人の心を表すものなのですが、心を媒介するのになぜ必ずと言っていいくらいそこに物の仲立ちが必要になるのか。寄物陳思について解説します。

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寄物陳思とは

物や景色を詠むということは、実際にも万葉集の頃からある短歌のスタイル、技法でもあるもので、「寄物陳思」と呼ばれています。

「寄物陳思」というのは、「物に寄せて思いを陳(の)べる」ということです。

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「寄物陳思」の読み方

「寄物陳思」とは、万葉集で「寄物陳思歌」として記されたもので、「寄物陳思」の読み方は「きぶつちんし」です。

返り点を打って和文の読み方にすると

「物に寄せて思ひを陳ぶる歌 ものによせておもひをのぶるうた」

となります。

「陳ぶる」は「述ぶる」と同じです。

「寄物陳思」の意味

「寄物陳思」の意味は、

心情と物象を対応させて一首を構成する方法

となります。

万葉集の他の作歌方法

同様の万葉集の作歌方法には「寄物陳思」の他、「正述心緒型」「詠物型」「叙景型」を含めて4つあります。

寄物陳思の和歌の例

物に寄せて思いを述べる寄物陳思の方法で作られた万葉集の歌の例をあげます。

例1

夏の野の繁みに咲ける姫百合(ひめゆり)の 知らえぬ恋は苦しきものそ
坂上郎女 (万8 1500)

「夏の野の繁みに咲ける姫百合(ひめゆり)の」までは序詞でこの部分が、寄物陳思の「物に寄せた」部分。

繁みにこっそり咲く姫百合とまだ表されないでいる恋心が重ねられている。序詞に物を詠み込むという伝統的な作歌方法の一つ。

例2

千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波止むときもなしわが恋ふらくは
坂上郎女(万4-526)

絶え間ない川の流れのと、さざめく鳥の声に、やまない恋心を重ねて表現をしたもの。

 

短歌と景色

そもそも人の気持ちというのは、目には見えません。目には見えないものを言葉で言い表すのは難しいものです。

たとえば、その日の気分によって、心に色がつくとしたらどうでしょう。

穏やかな時は緑であったり、元気な時は黄色であったり、沈んだときは青であったり、リトマス試験紙のように色が変わるものであったとしたら、色を知らせることで、自分の気持ちが今どんなものなのかを伝えることができると思います。

短歌における物や景色とは、そもそもそのようなものなのだろうと思います。

微細な心のグラデーション

また、同じ一つのカテゴリーであっても、たとえば「悲しい」という状態には様々なレンジがあります。

ある日誰かが死んでしまって、嘆き悲しむような「悲しい」というのと、失恋した悲しみとでは、同じ「悲しい」ではあっても、種類は全く違います。

そのような、感情の微細なところを表すのには、「悲しい」といった抽象的な言葉、短歌では「感情語」とも言われますが、それだけでは不十分なため、目に見えるものを入れることで、より細やかに心の状態を表そうとしたものだとも思われます。

斎藤茂吉の「うれひ」の例

斎藤茂吉の歌を例に引きます。

細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり

川の細い流れがあって、その水の端に流れの悪くなっているよどんだところがある。そこに細かい砂が流れずにたまっている。そのくらいの程度の、そのような種類の「愁い」である---

そのような提示の仕方で、作者は自分の気持ちを述べているわけですが、大変微細に自分の心境をとらえて、それを表現しています。

ここでは、その「砂の片寄り」を用いることで、「愁い」という、ただ一言で大雑把に述べるよりもはるかに多くのことを読み手に伝えることができます。

一つには、誰もが見たことがあって容易に浮かべられる物とその情景を用いることによって、イメージが瞬時に共有されるということ。その共有自体が、半分くらいは共感と同じであるといってもいいでしょう。

その上で、このような表現には、強いオリジナリティー、独自性があります。「愁い」という誰にでも共通の言葉で言い表す以上の、この作者に個別の表現が、物や情景を選りすぐることで、可能になるということなのです。

 

万葉集の寄物陳思の表現様式

以下に寄物陳思について説明された部分を挙げておきます。

〈寄物陳思(きぶつちんし)〉の表現様式は、記紀歌謡以来のきわめて伝統的な詠み方であったとみられます。
『万葉集』のなかでも、後で述べる〈正述心緒〉(せいじゅつしんしょ)型、つまり心情や行為を表す言葉だけで構成する表現様式よりも、こちらの方がはるかに多いのです。

この〈寄物陳思〉の様式では〈物〉が〈心〉に従属する関係であるよりも、むしろ〈物〉と〈心〉が対等の位置にあってたがいに対応しあっている、とみることができます。

もともと人間の心や行為を現わす言葉は、それ自体抽象的であり、しかも語彙もさほど豊富ではありません。
あの人のことがたまらなく恋しいとか、あの人と一緒にいないのが堪えがたく寂しいとか言うだけなら、ありきたりの表現に終始するだけです。

ところがそこに、目に見える山や花や川の流れなど具体的なものや景を加えてみると、どうなるでしょう。
〈物〉はあくまでも具体的に目に見える事物現象を表す言葉です。そうした〈物〉を〈心〉の文脈にとりこむことによって、〈物〉だけでもなければ〈心〉だけでもない、新たな心の映像がつくり出されます。

詩歌一般におけるイメージとしての映像です。〈物〉と〈心〉を対応させる方法によって、心のありきたりな表現を克服して、いかにも叙情的な詩性をひらこうとしたといえます。---『万葉集入門』鈴木日出男著

長い時間をかけて受け継がれてきた詩形と詠み方によって、今も短歌が詠まれているということは、つくづく不思議なことだと思います。

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