古泉千樫の短歌代表作品50首  アララギ派の歌人の抒情と平淡 歌の特徴  

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古泉千樫の短歌代表作品50首  アララギ派の歌人の抒情と平淡 歌の特徴

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古泉千樫の短歌の代表作50首をまとめました。

古泉千樫は伊藤左千夫に師事したアララギ派の歌人です。

早く亡くなった古泉千樫の歌集は『川のほとり』『屋上の土』『青牛集』の3冊に集約されます。

各歌集からから選んでまとめたもの、古泉千樫の短歌の特徴と合わせて掲載します。

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古泉千樫の短歌の特徴

古泉千樫には、生前に千樫本人が出版した歌集の他に、門人らがまとめた3冊の歌集があります。その年代ごとの配列は次の通りです。

古泉千樫の歌集と年代

川のほとり 明治37年—大正13年
屋上の土 明治41年—大正6年
青牛集 大正7年—昭和2年

『川のほとり』は、明治37年から大正13年の作品から432首を自選した選集となっています。

明治41年から明治45年までの歌を収めた『屋上の土』が最初に出版予定であったのですが、これが出されずに選集としてまとめられました。

そこで漏れた歌が、後ほど門人の手によって出版されるということになり、千樫の短歌は歌集をまたいで、年代順に紹介されることが多いです。

 

釈迢空の古泉千樫

同時代の歌人で千樫の歌をもっとも高く評価していたのは釈迢空で、迢空は

「日本の短歌は本質に従うて伸びると千樫の歌になる」「あらゆる時代の歌を調和した発想法を持っていた」

と言いました。

また、釈迢空に師事した岡野弘彦は、「やわらかなしらべと、リリカルな香りの高さ」短歌としての「素直で自然なよさ」を挙げています。

岡野弘彦の古泉千樫評

さらに、千樫の短歌には、岡野が「しずかなさびしさ」と指摘するように、哀感が伴うのも特徴です。

題材については、家族や故郷を詠んだものが他の歌人に比べて非常に多く、日常詠がほとんどで、東京に移ってきてからも、田園的な風景が繰り返し詠まれており、自然主義的文学観が根底に見られます。

技法的には、万葉調を取り入れて古風であること、古典、古語における助詞や助動詞が多用されていることなどが挙げられます。

晩年、病を得てからは、一層の平淡の境地にたどり着いたとされ、総じて物足りないと評する人もいますが、生涯を通じて保たれた抒情には、歌評を越えて好感を申し述べる歌人が少なくありません。


古泉千樫の短歌50首

ここから、古泉千樫の短歌、50首を掲載します。

 

みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも

アララギに投稿を始める前からの作品とされ、千樫の代表作の一つに挙げる人も多い。
嶺岡山は、故郷の山。

外風呂に湯あみし居れば月読は山の端いでてわれを照らせり

初期の歌は故郷の田園的で牧歌的な歌が多い。

山行くとくぬぎの若葉萩若葉扱きつつもとな人わすらえず

「もとな」はなんのわけもなく、むやみに、の意味。
千樫は近隣の人妻と恋愛問題が起き、それもあって後に故郷を出ることになる。

よき人にともなはれつつ亀井戸の藤なみの花わが見つるかも

よき人とは伊藤左千夫。

ふるさとに帰れるその夜わが庭の椎の若葉に月おし照れり

「おし照る」は万葉集にある語。

皐月空(さつきぞら)あかるき国にありかねて吾(あれ)はも去(い)なめ君のかなしも

恋愛問題で故郷を出る心境を詠った歌。

うちとよむ大きみやこの入口に汽船(ふね)はしづかに入りて行くかも

23歳で上京の折、船が東京湾に入るときのこと。

塵けむるちまたに吾は奔(はし)りきぬ君もかなしく出でてきたらむ

故郷の恋人との待ち合わせの歌。

吾からと別れを強ひし心もてなにに寝らえぬ夜半のこほろぎ

結婚前の妻と思う。10歳年上のきよは、人妻であったらしい。

石ひくくならべる墓に冬日てりひとつひとつ親しくおもほゆ

「石ひくく」の確かな把握が注目される。

ものなべて忘れしごとき小春日の光のなかに息づきにけり

上句の比喩がよい。

ともし火を消してあゆめば明け近み白く大きく霧うごく見ゆ

確かな把握に一見奇もなくととのった詠みぶりの中に新鮮な効果がある。

あらしのあと木の葉の青の揉まれたるにほひかなしも空は晴れつつ

牛の子のいまだいとけなき短かつのひそかに撫でて寂しきものを

千樫には牛の歌が多いが、子を亡くした一連の中の一首で、牛の子とのつながりがある。

桃のはな遠に照る野に一人立ちいまは悲しも安く逢はなくに

原阿佐緒への相聞歌。

たたなづく稚柔父のほのぬくみかなしきかもよみごもりぬらし
跳ぶ蜂の翼きらめく朝の庭たまゆら妻のはればれしけれ

みごもった妻をうつくしく詠ったもの。

鷺の群かずかぎりなき鷺のむれ騒然として寂しきものを

千樫はこれらの歌を詠もうと、池に連日通ったそうで、「結局こういう形になった歌も幾日かのふかい写生から生まれたのである。そこに僕の強みと安心がある」と述べている。
斎藤茂吉は結句に不満を述べている。

日ざかりの町いつぱいに澄みひびく木工場の鋸の音

千樫にはそれほど多くない近代的な町の風景を詠ったもの。

秋の稲田はじめて吾が児に見せにつつ吾れの眼に涙たまるも

故郷の稲田に子を伴った。この連作は小説的な構成を持つめずらしいもの。

わが児よ父がうまれしこの国の海のひかりをしまし立ち見よ

他の歌人にもあることだが、千樫はそれ以上に繰り返しふるさとを詠って、いずれも素朴でありながら愛惜が深い。

五百重山(いほへやま)夕かげりきて道寒ししくしくと子は泣きいでにけり

一首目の歌など、「五百重山」と思い切って大柄で古典的なしらべの張った言葉を用いて歌いだし、次第にもの静かに哀切に歌いすすめてゆく言葉のはこび、心のうつり、おっとりとして繊細で、余人にはまねのできない境地である。(岡野弘彦)

祖父(おほちち)に初めて逢ひて甘えゐるわが児の声のここにきこゆる

父を詠ったものに対して母を詠ったものは多くないようだ。なお、茂吉には千樫の母の出てくる歌がある。

移るべき家をもとめてきさらぎの埃あみつつ妻とあゆめり

このあと探し当てた家に千樫は晩年の十年を住んだ。

きさらぎのあかるき街をならび行き老いづく妻を見るが寂しさ

千樫の妻は十歳年上であった。当時としてはかなりの年齢差だったろう。

乳牛の体のとがりのおのづからいつくしくしてあはれなりけり
茱萸(ぐみ)の葉の白くひかれる渚みち牛ひとついて海に向き立つ

千樫の牛の歌は定評がある。千樫にとって牛は特別な対象だったようで、やはり郷里に結びついたところで、佳作が生まれてもいるのだろう。

夕なぎさ子牛に乳をのませ居る牛の額のかがやけるかも
入りつ日の名残さびしく海に照りこの牛ひきに人いまだ来ず

この一連は68首ある。牛と共に世話をする父親が詠われている歌もあり、いずれも牛が美しく歌われている。

いそぎつつ朝は出でゆく街角に咲きて久しき百日紅の花

千樫は水難救済会というところに勤めていたが、生活は貧しかった。「ほとほとに身の貧しさにありわびてわがふる里を思ふこと多し」を見ると、現在の生活の苦しさから、故郷が理想化されていもいたのだろう。

ふるさとの父のいのちはあらなくに道に一夜をやどりつるかも

父を悼む歌。駈けつけた千樫はやむなく途中で一泊したという

わくらばにわれら肉親あひ寄りて幾日は過ぎぬ父あらぬ家に

わくらばに、は「たまたまに」の意。

土ふかく父の柩をおさめまつりわがおとしたる土くれの音

父の葬りの歌。

病める身を静かに持ちて亀井戸のみ墓のもとにひとり来にけり

意思に外出は厳しく禁じられる病状だったが、伊藤左千夫の忌日には墓に詣でた。

千樫は、茂吉や赤彦のように左千夫に反駁したことはなく、千樫にとって左千夫は絶対の対象であった。

ひたごころ静かになりていねて居りおろそかにせし命なりけり

「ひたごころ」は、ひたむきな心、いちずな心。

おもてにて遊ぶ子供の声きけば夕かたまけてすずしかるらし

代表作「稗の穂」冒頭の一首。歌その他を見ても、入院は一度もなかったようだ。おそらく金銭的に余裕がなく、自宅で療養するのみであったのだろう。

秋さびしもののともしさひと本(もと)の野稗(のびえ)の垂穂(たりほ)瓶(かめ)にさしたり

斎藤茂吉が下の歌と共に佳作にあげている。

秋の空ふかみゆくらし瓶にさす草稗の穂のさびたる見れば

この一連は千樫の代表作として定評のあるもの。「千樫全作品中の高峰」(橋本徳寿)

山の上にひとり焚火してあたり居り手をかざしつつ吾が手を見るも
ひとり親しく焚火して居り火のなかに松毬(まつかさ)が見ゆ燃ゆる松かさ

故郷静養中の作。
静かで和らいだ心境のこれらの作を、自選集「川のほとり」の最後に置いている。

秋の雨ひねもす降れり張りたての障子あかるく室の親しも

病状が一時軽快した折の歌。

家いでてわれ来にけらしこの山の深き落葉を踏みつつぞ行く
冬日かげふかくさしたる山のみ寺の畳の上に坐りけるかも

橋本徳寿が同行した「黒滝山」。千樫は病後初めての旅だった。

この雨の今日はしづかに降るらむをわれは立ち行くこの古里を

郷里を発つ際の歌

花すぎし庭の八つ手の花茎のうす黄さびしく日はてりにけり

八手の花は花びらがなく、それだけでさびしいものだが、この歌では殊更に強調される。

冬の日の今日あたたかし妻にいひて古き硯(すずり)を洗はせにけり

病床吟中の秀作とされる。

おくつきにささげまつると早春の寺の井戸水わが汲みにけり

伊藤左千夫の墓に詣でた折のもの。

いただきより水そそぎけりみ墓石さやけく濡れて光るしづけさ
二月の午前の日かげあざやかにわが影ありぬみ墓べの土に

千樫は、斎藤茂吉や島木赤彦のように左千夫に対して反駁したことはなかったという。

佐千夫は千樫にとって、絶対の対象であり、尊父、尊師として左千夫への思い入れは一入であったようである。

牝牛みな厩に入れて夕がたの乳しぼるべき時にはなりぬ
ふるさとのこの春雨にあさみどりぬれたる山を見つつ別れむ

故郷の牛は幾度も詠われる。

ゆくものは逝きてしづけしこの夕べ土用蜆の汁すひにけり

左千夫忌にかつて一緒に忌日を過ごした赤彦も憲吉ももうこの世にいないという追憶。

 

まとめ

古泉千樫の短歌はいかがでしたか。

千樫は薄幸の歌人とも言われていますが、たくさんの短歌が愛唱されたことを思えば、十分ともいえるのではないでしょうか。




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