青葉さへ見れば心のとまるかな散りにし花の名残と思えば 西行の葉桜の短歌  

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青葉さへ見れば心のとまるかな散りにし花の名残と思えば 西行の葉桜の短歌

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芭蕉は西行に倣って旅をしたと言われる。百人一首の西行法師。前者は江戸時代の俳人(当時俳諧師と呼ばれた)、後者は鎌倉時代の歌人になる。

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西行の桜の短歌

西行の桜についての歌を、雑誌でたまたま目にする機会があった。

何(なに)となく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山
吉野山梢の花を見し日より心は身にも添わずなりにき

吉野山の「花」は桜のことで(以下同じ)、「花」は思いを寄せた「待賢門院」(たいけんもんいん)を指すとも言われる。

歌としてはどちらでもいいのだが、二首目文末、「~き」というのは、過去の回想を表す助動詞で、女人とみてもいいかもしれない。

 

もろともにわれをも具(ぐ)して散りね花うき世をいとふ心ある身ぞ

「生をいとう私であるから、桜よ、私も共に散らしてしまっておくれ」
僧侶とはいえ、情念に満ちる激しい歌。

尋ぬとも風の伝(つて)にも聞かじかし花と散りにし君が行方を」と一緒に考えれば、思う人に先立たれては、「世をいとう」気持にもなるであろう。

 

青葉さへ見れば心のとまるかな散りにし花の名残と思えば
春ごとの花に心を慰めて六十路(むそじ)あまりの年を経にける

西田幾多郎の「赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路(いそじ)あまりの年をへにけり」を思い出す。

ちなみに西田の上の句は学究生活を指すのであろうか。西田は哲学者。歌人ではないのだが、歌を詠んで楽しまられたらしい。

 

わきて見ん老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき

「わきて」は、とりわけ心して、の意味。「心して見よう。あと何度春に花が咲くかもわからない桜の老木を」

 

吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬ方(かた)の花を尋ねん

「こぞ」とは昨年のこと。「去年たどった道ではない、今年は別な方の木を見に行ってみよう」というもの。

見知らぬ道にも分け入って、新しい桜に逢おうと歩みを進める、みずみずしい心の西行が見える。




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