真命の極みに堪へてししむらを敢えてゆだねしわぎも子あわれ
吉野秀雄の短歌集『寒蝉集』には、命が尽きようとする妻との愛の交歓を表す稀な短歌があることはよく知られています。
『寒蝉集』の他の短歌と併せて、歌の成り立ちと背景をご紹介します。
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読み:まいのちの きわみにたえて ししむらを あえてゆだねし わぎもこあわれ
一首の意味:
死に瀕している妻がつらさをこらえて私と結ばれようと、体を私にゆだねた、その妻のあわれなことよ
解説と鑑賞
妻との最後の肉体的な接触をあからさまに、しかしこれほど厳粛にありのままに詠った歌はこれまでにない稀なものです。
命の間際に、妻が夫に求める絆、そして、生の証が、性を介するものだという、人間の真実がそのままに表されています。
妻の死を身をもって体験した吉野秀雄の絶唱と言えます。
吉野秀雄の自解
この出来事は、はつ子の死の前日のことだったといいます。吉野の記す部分を見ると様子がわかります。
「これは八月二十八日 (死の前日の夜) の出来事であった。看護婦が席を外してすぐ、 “こんな死ぬばかりのからだになっても・・・・” と言ひだした亡妻の真剣必死の声をどうして忘れることができようか。彼女の人間愛の最後の大燃焼であり、炎々たる火焔の中に骸となっていったと観るべきである。事ここに及べば、肉体も精神も糞もない。そんな分別は青瓢箪者流のたはごとに外ならぬのだ。----- ただこれだけをいふ。南無阿弥陀仏」 ( 吉野秀雄『自註寒蝉集』 )
後に山本健吉が記す通りで、そのことをおぼめかし、美化して詠おうとする配慮や、いささかの享楽的要素もない、まさにただそこに今まさに消えようとしている「命」があるだけ、という感じしかありません。
歌に詠まれたのは、その命が最後の炎を燃やす瞬間なのです。
吉野秀雄の「愛の短歌」
この短歌を「愛の短歌」というカテゴリに入れることもできなくはないかもしれません。
正しくこれも愛の一つには違いありませんが、私たちが「愛」に思い浮かべる以上の、死というものを前にした、人間の究極の姿がここにはあると思います。
それをそのままに詠んだ、歌人の短歌への態度と覚悟も素晴らしいと言われてしかるべきです。
小林秀雄が絶賛
昭和22年、自ら編集する『創元』という雑誌に載せるためのこの原稿を受け取った小林秀雄は、山の上の方に住んでいましたが、原稿を読み終えるなり山を駆け下りて、麓の吉野の家に駆け込んで絶賛したと伝えられています。
一連の他の短歌作品
この一首は、下の一連3首の中の一つであり、他の作品を含めると下のようになります。
いずれも、これほど厳粛なものとして詠まれた男女交合の歌は、他にはないでしょう。
真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢えてゆだねしわぎも子あわれ
これやこの一期(いちご)のいのち炎立ち(ほむらだち)せよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹
ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震わす
『寒蝉集』成立の背景
『寒蝉集』は、妻が病を得たところから始まります。
歌集の冒頭には、次のように記されます。
「昭和十九年夏、はつ子胃を病みて鎌倉佐藤病院外科に入院し遂に再び起たず八月二十九日四児を残して命絶えき享年四十二会津八一大人戒名を授けたまひて叔真院釈尼貞初といふ」
意味は
昭和19年夏、はつ子は胃を病んで病院に入院して、そのまま病臥して起き上がれなくなった。
8月29日には、42歳にて、4人の子を残して亡くなった
はつ子の病名は胃がんと伝わっていますが、詞書を見るとひじょうに短期の闘病で、病気が発覚してからすぐに亡くなったようです。
妻はつ子の闘病に始まる『寒蝉集』
歌集は、そして、その短い間の妻の闘病を歌った歌をもって始まります。
病む妻の足頸(あしくび)にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし
遮蔽燈の暗き燈(ほ)かげにたまきはる命尽きむとする妻と在り
をさな子の服(ふく)のほころびを汝(な)は縫へり幾日(いくひ)か後(のち)に死ぬとふものを
おさな児の兄は弟をはげまして臨終(いまは)の母の脛さすりつつ
最初から、死期を告げられた上での療養で、秀雄のつらさ、そして子供たちとの嘆きが胸を打ちます。
死に向かう妻をつぶさに見つめ、いずれも生活の実場面に即したものです。
死というもの、そして、死別の苦しみというもの、それらが切々と表された歌の数々は詠むたびに胸を揺さぶられずにはいられません。
妻はつ子を取り巻く家族の姿
他にはつ子を取り巻く子どもたち、そして吉野自身の姿も胸を打ちます。
幼子は死に行く母とつゆ知らで釣りこし魚の魚篭(びく)を覗かす
亡骸にとりつきて叫ぶをさならよ母を死なしめて申訳もなし
母死にて四日泣きゐしをさならが今朝登校す一人また一人
長(をさ)の娘を母によく似つと人いふにつくづく見つめ汝ぞ恋しき
人の妻傘と下駄もち夜時雨の駅に待てるをわれに妻亡し
とりわけ子供たちの無邪気さの表れた歌には、涙を抑えることができません。
吉野はこのあと、八木重吉の妻だった登美子夫人と巡り合い、再び心休まる家庭を得ることになります。
それについては下の記事に
吉野秀雄 妻の短歌「我が胸のそこひに汝の恃むべき清き泉のなしとせなくに」
吉野秀雄について
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年(明治35年)7月3日 - 1967年(昭和42年)7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。歌集《苔径集》《寒蝉集》《吉野秀雄歌集》等 ―出典:吉野秀雄 wikipedia フリー百科事典
吉野秀雄が登美子夫人を詠んだ歌、『寒蝉集』を筆写したページとをまとめましたので、併せて閲覧のお役に立ててください。
■吉野秀雄の妻の短歌 我が胸のそこひに汝の恃むべき清き泉のなしとせなく