歌人と作品

吉野秀雄短歌集『寒蝉集』全作品

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吉野秀雄の短歌集『寒蝉集』

玉簾花

昭和十九年夏、はつ子胃を病みて鎌倉佐藤病院外科に入院し遂に再び起たず八月二十九日四児を残して命絶えき享年四十二会津八一大人戒名を授けたまひて叔真院釈尼貞初といふ  

古畳を蚤のはねとぶ病室に汝(な)がたまの緒(を)は細りゆくなり

日盛りに壕(がう)堀りいそぐ横須賀のちまたうろつき薬をさがす

八月(はちぐわつ)の西日(にしび)除(よ)けむと丸窗(まるまど)に板戸を閉して汝(なれ)を病ましむ

ふるさとの貫前(ぬきさき)の宮の守り札(ふだ)捧げて来つれあはれ老い母

服(の)ますべき薬も竭(つ)きて買ひにけり官許危篤救助延命一心丸

病む妻の足頸(あしくび)にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし

自転車をひたぶる飛ばすわが頬を汗も涙も滴りて落つ

玉簾花(ニ)

氷買ふ日毎(ひごと)の途(みち)にをろがみつ饑渇畠(きかつばたけ)の六体地蔵

病室の隅に双膝抱(もろひざだ)くわれを汝(な)は怪しまめすべもすべなさ

生かしむと朝を勢(きほ)へど蜩(ひぐらし)の啼くゆふべにはうなだれてをり

額(ひたひ)冷やすタオルの端(はし)に汝(な)がなみだふきやりてはたわが涙拭く

手を束(つか)ね傍看(そばみ)るごとくおろおろと黙(もだ)せる我を詰(なじ)りてくれよ

坐(すわ)りてはをりかぬればぞ立上(たちあが)り苦しむ汝(なれ)をわれは見おろす

幼子(おさなご)は死にゆく母とつゆ知らで釣りこし魚(うを)の魚籃(びく)を覗(のぞ)かす

提(ひつさ)げし氷を置きて百日紅(さるすべり)燃えたつかげにひた嘆くなれ

病妻(やみづま)の胃腑(ゐのふ)のいたみさ夜中のわれにひびきて胃の疼(うづ)きくる

物食はむ力もつきし汝(な)が膳(ぜん)をいきどほりもちて我はむさぼる

玉簾花(三)

炎天(えんてん)に行遭(ゆきあ)ひし友と死近(しにちか)き妻が棺(ひつぎ)の確保(かくほ)打合はす

歩みゐて流るる涙のごはねば道辺人(みちのべびと)はいぶかしみ佇(た)つ

九州を米機の襲ふ夕まぐれ妻の呼吸のやうやくけはし

潔(きよ)きものに仕ふるごとく秋風の吹きそめし汝(な)が床(とこ)のべにをり

をさな子の服(ふく)のほころびを汝(な)は縫へり幾日(いくひ)か後(のち)に死ぬとふものを

この秋の寒蝉(かんせん)のこゑの乏(とぼ)しさをなれはいひ出づ何思ふらめ

院内(ゐんない)に居処(をりど)もなくて物干場(ものほし)のかげに煙草を吸ひつつし哭(な)く

今生(こんじやう)のつひのわかれを告げあひぬうつろに迫る時のしづもり

遮蔽燈の暗き燈(ほ)かげにたまきはる命尽きむとする妻と在り

をさな児の兄は弟(おとと)をはげまして臨終(いまは)の母の脛(すね)さすりつつ

玉簾花(四)

母の前を我はかまはず縡切(ことき)れし汝(なれ)の口びるに永く接吻(くちづ)く

隣室(りんしつ)の患者憚(はばか)り声あげて泣きも得せずて苦しよわれは

息絶えし汝(なれ)の面の蚊を追ふと破れ団扇(うちは)をわがはためかす

事つひにここにいたりぬ死床(しのとこ)の敷布(しきふ)の襞(ひだ)をわれはみつむる

亡骸(なきがら)にとりつきて叫ぶをさならよ母を死なしめて申訳もなし

命(いのち)なき汝(な)が唇(くちびる)のうごめくと母はつぶやきわれも然(しか)見つ

夜の風に燈心(とうすみ)蜻蛉(とんぼ)ただよへり汝(な)がたましひはすでにいづくぞ

新聞紙(しんぶんがみ)を呉れよなどいふ老母(おいはは)は屍体(したい)に何をなさむとすらむ

探照燈の光箭交(くわうせんかは)す夜空なり生死一大事決(しやうじいちだいじき)まりたるなり

さ夜更けの風は冷えびえ秋めきて汝(な)が死面(しおもて)に触れかゆくらし

玉簾花(五)

死顔(しにがほ)に化粧(けはひ)したれば須菩提(しゅぼだい)の下脹(しもぶく)れなるおもざしに似つ

老母(おいはは)とふたりの通夜(つや)の夜のほどろ瓶(かめ)のカンナをあふる風つよし

とことはになれは死にせり八月二十九日暁方(あけがた)月赤く落つ

遺(のこ)されし吾(あ)と老いははにあかつきの梟(ふくろふ)きこゆ千葉谷(ちばがやつ)より

汝(な)が魂(たま)はいづくさまよふ末の子の手をひき歩む夜の道暗し

わが門(かど)に葬儀自動車の止(とど)まれるこの実相(ますがた)をいかにかもせむ

屍(かばね)にもいまは別れむ泣きぬれて歎異(なんゐ)の鈔(せい)を誦(ず)しまつりつつ

葬儀車に乗せられし汝(なれ)をいつくしみ柩(ひつぎ)の蓋(ふた)に掌(て)を掛けてゆく

隠坊(おんぼう)は汝(な)が喉仏(のどぼとけ)の全きを珍らしむなりほとけになれよ

手抱(てむだ)ける汝(な)が骨壷(こつつぼ)に温(ぬく)みあり山をとよもす秋蝉(あきぜみ)のこゑ

玉簾花(六)

たらちねの母に別れし四人子(よたりご)の頭(かうべ)を撫づれおのもおのもに

葬儀用特配醤油つるしゆくむなしき我となりはてにけり

いのちありて汝(なれ)が作りし南瓜(たうなす)とトマト供へて葬(とむら)ひをなす

汝等(いましら)の胸に母在りとをさならに説ききかしつつこころ虚(むな)しよ

よしゑやし奈落迦(ならか)の火中(ほなか)さぐるとも再び汝(なれ)に逢はざらめやは

葬(とむら)ひの済みてもろびと去りゆけば疲れきりたる子らは丸寝す

母死にて四日泣きゐしをさならが今朝(けさ)登校す一人また一人

よろめきて崩れ落ちむとする我を支ふるものぞ汝(なれ)の霊(たま)なる

とむらひの後(あと)のあらまし片づきて飯米(はんまい)の借が少し残りぬ

をさな子が母を夢みし語り言(ごと)くりかえしわれは語らしめつつ

玉簾花(七)

汗たらし駈けめぐる時耳元にわれをねぎらふ妹(いも)が声すも

これの世に生くらむ限り果てしなく底ひもわかぬわが嘆きなれ

長(をさ)の娘(こ)を母によく似つと人いふにつくづく見つめ汝(なれ)ぞ恋(こほ)しき

あはれ汝(な)が去年(こぞ)積みし戦果貯金もて厨子(づし)と位牌をあがなひ得つる

配給酒(くばりざけ)時たまありてわれは酔ふ何をたどきに子らや生くべき

野菜買ひて暗き野道に伴(つ)れだてば子や想ふらしその母わが妻

摘みえたる野菊犬蓼薬師草(いぬたでやくしぐさ)妹(いも)がみたまは家に待たむぞ

工場(こうば)より日暮れ疲れて戻る子をねぎらふ声よ彼世(あのよ)ゆひびけ

配給の麦酒(ビール)もてきて飲みかはし大佛次郎(おさらぎじろう)われをはげます

しろたへの一重(ひとへ)の布を纏(まと)ふのみ汝(なれ)のお骨(こつ)は冷えまさるべし

玉簾花(八)

いくばくか汝(なれ)にかかはるかもかくもひたぶるに唱(とな)ふ速証菩提(そくしようぼだい)

渋柿をあまたささげて骨壷(こつつぼ)のあたりはかなく明るし今日は

酒のみてしだいに痺(しび)れくるわれをいづくにか別なる我(われ)が意識す

山茶花(さざんくわ)は白磁(はくじ)の瓶(かめ)にふさへりと汝(な)がいひしごと挿して供ふる

鉦叩虫(かねたたき)かね打つなべに蛁蟟(みんみん)の蝉は経誦(よ)むなれのみたまに

しみじみとおもひひそめて哀しまむ一日(ひとひ)だもなくて今日七七忌(しちしちき)

秋の夜を暇(いとま)つくりて子供らに物教ふるぞいまのなぐさみ

雨ながら門(かど)の木犀(もくせい)匂へればわがなげかひも五十日経(いかへ)にけらし

台所に泣く女童(めわらは)よ叱りたる自(し)が父われも涙ぐみゐる

なれ失(う)せて半ば死にけるうつせみを揺(ゆす)り起(た)たして生きゆかむとす

玉簾花(九)

この秋の庭に咲きいづる玉簾花(たますだれ)骨(こつ)に手向(たむ)くと豈(あに)思ひきや

つぎつぎに供ふる草の花枯れて汝(な)が骨(こつ)つぼを秋の風吹く

人の妻傘と下駄もち夜時雨(よしぐれ)の駅に待てるをわれに妻亡し

念仏をとなへながらに或る折のなまめきし汝(な)が声一つ恋ふ

子供部屋に忘られし太鼓とりいでて敲(う)ちうつこころ誰知るらめや

骨壷(こつつぼ)の前にころぶすうつし身を吹く秋風はすでに寒けれ

母死にて幾日(いくひ)か経(へ)つと朝牀(あさどこ)の子は朝牀(あさどこ)のわれに言問(ことど)ふ

酒酌(く)めばただただねむし骨髄(ほねすぢ)に澱(おど)む疲れのせむすべもなさ

股長(ももなが)に共にいを寝しぬばたまの夜床冷(よどこつめた)き巌(いは)と化したり

庭先の檀(まゆみ)の朱(あけ)をうるはしみ妹(いも)が骨董(こつつぼ)ふりかえりみつ

玉簾花(十)

ほつほつと椎(しひ)の実(み)食ぶる幼吾子(をさなあこ)眼(め)には見るらし母の写真を

しぐれの雨をりをりさわぐ夜のほどろねむる子らあはれ眠らえぬ身あはれ

ますらをのわが泣く涙垂り垂りてなれがみ霊(たま)を浄(きよ)からしめよ

酔ひ痴(し)れて夜具(やぐ)の戸棚をさがせども妹(いも)が正身(ただみ)に触るよしもなし

自転車に乗りゐて誦(ず)する心経(しんぎやう)をいづくのそらに妹(いも)やうべなふ

麦蒔(ま)きの学徒奉仕にはげむ子が野の辺(へ)に母を恋ふといはずやも

玉簾花(十一)

うつしみの身もたな知らに嘆かへば一塊(ひとくれ)づつや肉削(そ)げぬべし

蟷螂(かまきり)の黄いろく枯れて動かざるかかる命もみすぐしかねつ

末の娘(こ)と障子の穴をつくろへり汝(なれ)の位牌に風は沁ませじ

おのづから朝のめざめに眼尻(まなじり)を伝ふものあり南無阿弥陀仏

風呂にしてわれとわが見る陰処(ほとどころ)きよくすがしくたもちてをあらな

日のくれの道に独楽(こま)打つわらべらのいづれか家に母の待たざらめ

渚近く鯔(ぼら)の跳ねとぶ夕まぐれわがかなしみは極まらむとす

孤身(ひとりみ)に寒さはひびき管制の燈(あかり)の下に孑然(げつねん)とをり

 

百日忌

家出づるお骨(こつ)の母を見送ると暁(あけ)の寒さに慄ふをさなら

年の瀬の星屑(ほしくづ)満つる天(あめ)の下(した)汝が骨壷(こつつぼ)をかかへもちたり

骨壷(こつつぼ)を入れし鞄(かばん)は上(うへ)の娘(こ)とわれと互(かた)みに膝にのせあふ

多胡(たご)の野(の)のもみぢ葉晴れてふるさとへ汝(なれ)のみ霊(たま)はいま帰り来ぬ

冬枯(ふゆか)るる大桁(おおけた)の山雪白き浅間(あさま)の嶺(みね)や魂(たま)も見よかし

城山(じやうやま)にもみぢ折りしはむかしにてけふの黄葉(もみぢ)のむなしき明(あか)り

百日忌(2)

四五人(しごにん)がただただ寒さのみいひてここの野寺(のでら)に百日忌(ひやくにちき)終る

堂裏(だううら)のがたびし歪(ゆが)む骨棚(こつだな)になれのお骨(こつ)を載せて去るなり

銀杏(いちやう)散り枯菊(かれぎく)残る寺庭(てらには)のこの夕静(ゆふしづ)をたちさりあへね

酒のみて我は泣くなり泣き泣きて死ににし者の母にうつたふ

人の世はさぶしくもあるか年暮るるふるさとの駅(えき)に参宿(みつぼし)を瞻(み)て

妹(いも)失(う)せて百日(ももか)余り経(へ)しいまもかも胴の震へのやむ時はなし

歳暮るるこの寒空(さむぞら)に草鞋(わらぢ)はき帷子(かたびら)を著て吾妹(わぎも)やいづこ

「彼岸」

霧雨(きりさめ)のすがしき朝は松が枝(え)の糸瓜(へちま)の花を妹(いも)と見にしを

かの際(きは)におのが生涯(ひとよ)をつきつめて幸(さきは)ひとなして汝(な)はほほゑみし

生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最期(いまは)の息に耐へにき

信ずれば子らを頼むといまさらにあにいはめやといひて死にけり

真命(まいのち)の極みに堪(た)へてししむらを敢えてゆだねしわぎも子あはれ

これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹(わぎも)

ひしがれてあいろもわかず堕地獄(だぢごく)のやぶれかぶれに五体(ごたい)震はす

ひねもすの夜もすがらなるをののきゆ何にすがりて翻(ひるがへ)らむか

したたるや血の一路(ひとみち)をおし拓く遂(つひ)の力もありとせなくに

死ぬ妹(いも)が無しとなげきし彼岸(かのきし)を我しぞ信ず汝(なれ)とあがため

冥府(かくりよ)に魂合(たまあ)ふらむぞ生きのこるこころ咽(むせ)びも或(ある)はまぼろし

不生不滅空(ふしやうふめつくう)之又空(またくう)さは然(さ)あれ切り刻まるるこのわが現実(まさか)

哀しみを基(もとゐ)とすなるうつし世にいたぶられつつ果てもこそなけむ

乙酉年頭唫

たちかへる歳の旦(あした)の潮鳴(しほな)りはみ国のすゑのすゑ想はしむ

元日の暁(あかとき)起(お)きに巻脚絆(まきぎやはん)固くし締めてまうらすがしも

焼酎(せうちう)に葱(ねぎ)少しもてりあたらしき年のはじめとさらに勢(きは)はむ

雑煮餅妹(いも)が位牌にまづ供ふ春としもなき家内(やうち)のしづもり

水仙を挿せる李朝(りてう)の徳利壷かたへに据ゑて年あらたなり

陶壷(すゑつぼ)の水仙の花に面(おも)寄せて清き香(か)をきく年のはじめに

乙酉年頭唫(2)

配給の餅(もちひ)かぞへて母のなき四たりの子らに多く割当つ

一切れの堅き肉噛み歯ぐきいたし痛きもたぬし歳のはじめは

鶴岡(つるがをか)の霜の朝けに打つ神鼓(じんこ)あな鞺鞳(たうたふ)と肝にひびかふ

夕餉(ゆうげ)には馬肉煮るべし昼過ぎて雪催空(ゆきもひいぞら)窗に垂りたり

脚絆(きやはん)つけ外套を著て家(いへ)ぬちを旅の上なるごとく往来(ゆきき)す

亡き妹(いも)の庭作りせし馬鈴藷(じやがいも)が年越し縁(えん)の下(した)に残れる

大寒(たいかん)のさ夜のくだちに時定(さ)めてわが目覚(めざ)むるは妹(いも)の呼べかも

既在其中矣(すでにそのなかにあり)とふ言葉(ことのは)をわれはつぶやく朝(あした)ゆふべに

仰寒天正述傷心

  (注)繊月に見る地球照を仮に「魄(たま)」といひなしつ

うつし身に風花(かざはな)散らふ夕まけてするどき月は中空(なかぞら)に顕(た)つ

冱(さ)えわたる気邃(きぶか)き空に三日(みか)の月宵の明星(あかぼし)と息づきかはす

凍空(いてぞら)にかげなす魄(たま)をかき抱(むだ)くかぼそき月よ妹(いも)ぞこほしき

三日(みか)の月つめたき陰体(かげ)をかかへけり妹(いも)のみ霊(たま)を吾(あ)がまもるかに

弓月の魄(たま)の面昏(もくら)くかつ光(て)りぬ消えてあとなき妹(いも)と思(も)はめや

月の輪に妹(いも)が眉引(まよび)きたぐへもてわが恋ふらくはいたもすべなし

おもかげをしのぶ情(こころ)は繊月(ほそづき)の光研(かげと)ぎ出(いだ)す天(あめ)にさまねし

よひ早くい照る三日月あが恋ふるおもひ堪(た)へねばたわやかに見ゆ

人の身ははかなきものか初月(うひづき)の利刃(とば)の鎌をも亡き妹(いも)として

鈍色(にびいろ)の魄(たま)もつ二日三日の月現(あ)れいづる時し一生(ひとよ)なげかむ

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