伊藤左千夫の短歌100首 主要作品を解説  

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伊藤左千夫の短歌100首 主要作品を解説

2018年8月10日

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伊藤左千夫の短歌代表作品100首を掲載します。選は小市巳世司によるものです。

こちらのページは短歌テキストのみ、解説なしです。

伊藤左千夫代表作短歌30首を抽出して、に詳しい解説のある記事は伊藤左千夫短歌代表作品30首訳付 にあります。

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伊藤左千夫の短歌代表作品100首

伊藤左千夫の短歌代表作品100首を掲載します。選は小市巳世司によるものです。

主要な作品には現代語訳と解説を付記します。

代表作短歌30首のみに詳しい解説のある記事は下ページにあります。初めての方はこちらからどうぞ。

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伊藤左千夫について

伊藤左千夫は1864年9月18日、千葉県生まれ。

法律学校に行きましたが、目が悪かったため学業を断念、乳牛を育てて配布をするという牛乳搾乳業という仕事をしていました。

大変な働き者で、一日14時間も働いたとも伝えられています。

正岡子規に師事

一方、短歌は正岡子規に師事して、長塚節などと共に、「根岸派」として、短歌を研鑽。

子規の死後は根岸派を率いて、それが後のアララギとなりました。

斎藤茂吉や土屋文明など、アララギの有名な歌人は、伊藤左千夫の弟子にあたります。

歌の傍らに小説を執筆した「野菊の墓」によって有名となりましたが、文学での本分は、短歌の歌人です。

 

伊藤左千夫の歌集

伊藤左千夫は、40代で急逝しており、生前に歌集をまとめませんでした。

歌集としては、弟子であった土屋文明がまとめた歌集が一冊あるだけです。

 

伊藤左千夫100首

伊藤左千夫の歌100首をあげます。主要な作品には現代語訳と解説を付記します。

牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる

「明33牛飼」より。

現代語訳:牛飼いの仕事をしている私が、歌を詠むその時、世の中の新しい歌がまさに起こるだろう

伊藤左千夫の歌で最も最初の有名な一つ牛飼いの歌。伊藤左千夫は牛乳搾乳業を正業としていましたが、そのような人がこれからの次代を担う新しい短歌を詠もうとする心構えが高らかに宣言されています。

なお「新しき」は「あらたしき」との読みです。

時間順に100首を続けます。

葺きかへし藁の檐端(のきば)の鍬鎌にしめ縄かけて年ほぎにけり(新年雑詠)

かつしかや市川あたり松を多み松の林の中に寺あり(森)

元(げん)の使者既に斬られて鎌倉の山の草木も鳴り震ひけん(鎌倉懐古)

・・

うからやから皆にがしやりて独居(ひとりを)る水(み)づく庵(いほり)に鳴くきりぎりす

「水中の蟋蟀」より。

現代語訳:家族と他の人もみんな逃がしてやって自分ひとりが残っている水の上がった家に聞こえるきりぎりすの声

伊藤左千夫の住んでいたところは、平地であり、不運にも度々水害にみまわれるということがあり、その様子は繰り返し歌に詠まれています。

 

水害の短歌 伊藤左千夫 生涯で3度の被災を詠み続けた

 

池水は濁りににごり藤浪の影もうつらず雨ふりしきる

現代語訳:

池水は濁りににごって、波打つ藤の花も移らずに雨が降りしきっている

「明治34年作藤」より。太宰治が玉川上水に入水自殺をする際、色紙に書いて残した歌として有名です。

一首前が、「亀井戸の藤もをはりと雨の日をからかささしてひとり見にこし」を見てわかるように、亀井戸の藤を見に訪れた時のことです。

 

ともし火のまおもに立てる紅(くれなゐ)の牡丹のはなに雨かかる見る(雨夜の牡丹)

ふる雨にしとどぬれたるくれなゐの牡丹の花のおもふすあはれ

 

吾が大人(うし)が病おもへば月も虫もはちすの花もなべて悲しき

「何事につけても正岡大人をおもふ」の詞書があり、師である正岡子規の病を憂う歌です。

 

鎌倉の大き仏は青空をみかさときつつ万代(よろづよ)までに
(明35鎌倉なる大仏をろがみて詠める短歌より)

み裳裾に手をふりしかば全(また)き身の血汐し澄める心地しにけり

敷妙(しきたへ)の枕によりて病伏せる君がおもかげ眼(め)を去らず見ゆ(子規子百日忌)

軒の端(は)に立てる蚊柱水うてば松のこぬれにたち移るかも(明36吾庭の松)

茶を好む歌人(うたびと)左千夫冬ごもり楽焼を造り歌はつくらず(明37冬籠)

国こぞり心一つと奮ひたつ軍(いくさ)の前に火も水もなし(開戦の歌)

大詔(おおみこと)かしこかれどもまぐはしき絵の腕(かひな)ある君を悲しむ(素明画伯の出征を送る)

出入(いでい)りの瀬戸川橋の両側(ふたがわ)に秋海棠は花多く持てり(秋海棠)

百草(ももくさ)のなべての上に丈高き秀蓼(ほたで)の花も見るべかりけり(寺島の百花園)

東(ひむがし)に天地(あめつち)開く国力つからは展(の)びて年明けにけり(明38明治三十八年元寿歌)

天地(あめつち)に神にありとふ否をかもいくさのやまむ時の知らなく(喜中有罪)

炉(ろ)に近く梅の鉢置けば釜の煮ゆる煙が掛かる其の梅が枝(え)に(無一塵庵歌帖)

朝戸出に幼きものを携へて若葉槐(わかばゑんじゅ)の下きよめすも(草庵の若葉)

秋立つと思ふばかりを吾が宿の垣の野菊は早咲きにけり(小園秋来)

手弱女(たわやめ)の心の色をにほふらむ野菊はもとな花咲きにけり

山の手は初霜置くと聞きしより十日を経たり今朝の朝霜(初冬雑詠)

塵塚の燃ゆる煙の目に立ちて寒しこのごろ朝々の霜

妻よりも名よりも先に黄金(こがね)つふ大き聖をかくまへ吾が背(無一塵庵歌帖)

さ夜ふけの空のしらしら霜白き月夜(つくよ)入江を人渡る見ゆ(静といふ題にて)

・・

世の中の愚(おろか)が一人楽焼の茶碗を見ては涙こぼすも

「明39無一塵庵歌帖」より

この「愚」は伊藤左千夫自身のこと。

伊藤左千夫は茶道をたしなみ、茶碗などを大変好み、また晩年には茶室を作ったと伝えられています。

 

久々に家帰り見て故さとの今見る目には岡も河もよし(成東館即事)

蓼科の山の奥がと思ひしをこは花の原天(あま)つ国原(蓼科游草)

天の原くしき花のみさはにして吾が知る花に少なかりけり

朝湯あみて広き尾のへに出でて見れば今日は雲なし立科(たてしな)の山

牛飼の歌人(うたびと)左千夫がおもなりをじやぼんに似ぬと誰か云ひたる(明40じゃぼん)

天然に色は似ずとも君が絵は君が色にて似なくともよし(勾玉日記)

竪川(たてかは)に牛飼ふ家や楓(かへで)萌え木蓮咲き児牛遊べり

桜ちる月の上野をゆきかへり恋ひ通ひしも六(む)とせ経にけり

石踏みてあよむは苦し肉太(ししふと)の吾がゆく道に石なくもがな

柿若葉ゑんじゅ若葉のゆふやみに鳴くはよしきり声近くして

玉川の雨の青葉のここにしてくれなゐ濡れたる桃の実を売る(桃の玉川)

冬ごもる明るき庵(いほ)に物も置かず勾玉一つ赤き勾玉(明41冬籠)

 

九十九里の磯のたひらはあめ地(つち)の四方(よも)の寄合(よりあひ)に雲たむろせり

故郷の九十九里を詠んだ「磯の月草」より。後年の代表作品の前に詠まれた一連です。

このあとの「ひさかたの天(あめ)の八隅(やすみ)に雲しづみ我が居る磯に舟かへり来る」「幼きをふたりつれたち月草の磯辺をくれば雲夕焼けす」も良い歌です。

九十九里の一連は下の記事でご覧ください。

伊藤左千夫の短歌代表作「九十九里詠」九十九里の波の遠鳴り日のひかり青葉の村を一人来にけり

 

物皆の動(うごき)をとぢし水の夜やいや寒む寒むに秋の虫鳴く

「水籠十首」より。

再度の水害の歌。続く、「水やなほ増すやいなやと軒の戸に目印しつつ胸安からず」にも緊迫した様子がうかがえます。

水害の短歌 伊藤左千夫 生涯で3度の被災を詠み続けた

 

白玉の憂ひをつつむ恋人がただうやうやし物もいはなく

「玉の歌」より。伊藤左千夫は婚外恋愛の相手がいたようです。その苦悩を相聞歌に詠んでいます。

有名な小説の「野菊の墓」のテーマも、その背景があったからのようです。

伊藤左千夫「野菊の墓」の背景の恋愛と子規とのつながり 自らの短歌に満足した幸福な生涯

 

愚(おろか)我が人憎くまむと嘆けども悲しき我れや我(が)を去りがたし(一日なりとも)

松山を幾重さきなる天つへに雪まだらなり黒姫の山 (黒姫山)

風さやぐ槐(ゑんじゅ)の空にうち仰ぎ限りなき星の齢(よはひ)をぞおもふ (心の動き)

天地のなしのまにまに鳴く虫や咲く百草(ももくさ)や弥陀を知るらむ

うつそみの八十国原(やそくにはら)の夜の上に光乏(とも)しく月傾きぬ

 

よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも

「心の動き」より。

左千夫は大変に子だくさんで、また子煩悩でもあり、子どもを題材にした歌もたくさん残しています。

 

燈火(ともしび)のほやにうづまくねたみ風ねたむことわりなきにしもあらず

汽車のくる重き地響きに家鳴り(やな)りどよもす秋のひるすぎ

秋の野に花をめでつつ手折(たを)るにも迷ふことあり人といふもの

差並(さしなみ)のとなりの人の置き去りし猫が子を産む吾が家を家に

夜深く唐辛子煮る静けさや引窓の空に星の飛ぶ見ゆ

翁我れ耳の遠けくたける等(ら)が山ゆる声も虻と聞き居り

秋草のしげき思ひも云ひがてにまつはる露を手に振りおとす

世にありと思ふ心に負ひ持てる重き荷を置く時近づきぬ(明42題詠)

 

人の住む国辺(くにべ)を出でて白波が大地両分けしはてに来にけり

「二月二十八日九十九里浜に遊びて」より。他に

天地(あめつち)の四方(よも)の寄合(よりあひ)を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り

高山も低山もなき地の果ては見る目の前に天(あま)し垂れたり

この一連は、伊藤左千夫の代表作です。

 

あたたかき心こもれるふみ持ちて人思ひ居(を)れば鶯の鳴く

「三月六日独鶯を聞く」より。

この一首には伊藤左千夫の人柄が現れているように思います。

 

朝もやに鳴くや鶯人ながら我常世辺(とこよべ)に家居せりけり

そば湯にし身内あたためて書き物を今一(ひと)いきと筆はげますも(東京三月歌会)

秋風の浅間のやどり朝露に天(あめ)の門(と)ひらく乗鞍の山(信州数日)

思ふにし心悲しも夜(よ)を清み月に向へる草の上のつゆ

朝露のわがこひ来れば山祗(やまつみ)のお花畑は雲垣もなく

久方の天(あめ)の遥けく朗(ほがら)かに山晴れたり花原の上に

信濃には八十(やそ)の高山ありと云へど女(め)の神山の蓼科我れは

吾が庵(いほ)をいづくにせんと思ひつつ見つつもとほる天(あめ)の花原(信州数日)

 

 

おくつきの幼なみ魂(たま)を慰めんよすがと植うるけいとぎの花

「吾児のおくつき」より。

残念ながら子供の一人を、庭の池での事故で亡くされました。他に

今日の日の夕ぐれ時と思ひくればつめたきからのありありと見ゆ

へ年の三(み)つにありしを飯の蓆(むしろ)身を片よせて姉にゆづりき

禍(わざわひ)の池はうづめて無しと云へど浮藻のみだれ目を去らずあり(明43浮藻)

「淋しさの極みに堪へて天地に寄する命をつくづくと思ふ」にも、はかない命を詠っています。

明治45年の招魂歌「よわよわしくうすき光の汝(な)がみたま幽(かす)かに物み触れて消(け)にけり」にも幼い魂を歌います。

 

四方(よも)の河溢れ開けばもろもろのさけびは立ちぬ闇の夜の中に

3回目の水害の短歌。他に

水害の疲れを病みて夢もただ其の禍ひの夜の騒ぎはなれず(水害の疲れ)

水害ののがれを未だ帰り得ず仮住の家に秋寒くなりぬ

 

霜月の冬とふ此のごろただ曇り今日もくもれり思ふこと多し(明44冬のくもり)

我がやどの軒の高葦霜枯れてくもりに立てり葉の音もせず

独居(ひとりゐ)のものこほしきに寒きくもり低く垂れ来て我が家つつめり

裏戸出でて見る物もなし寒む寒むと曇る日傾く枯葦の上に

久方の三ヶ月の湖(うみ)ゆう暮れて富士の裾原雲しづまれり(三ヶ月湖にて)

よわよわしくうすき光の汝(な)がみたま幽(かす)かに物み触れて消(け)にけり (明45招魂歌)

 

今朝のあさの露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光

「大1年ほろびの光」より。この一連は、伊藤左千夫晩年の代表作品です。他に

おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く

鶏頭のやや立ち乱れ今朝の露のつめたきまでに園さびにけり

秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花

鶏頭の紅(べに)古りて来(こ)し秋の末や我れ四十九の年行かんとす

 

最晩年の作

おとろへし蝿の一つが力なく障子に這ひて日は静かなり(大2静なる日)

物忘れしたる思ひに心づきぬ汽車工場は今日休みなり

民を富ます事を思はぬ人々が国守るちふさかしらを説く(何の文明)

まづしきに堪へつつ生くるなど思ひ春寒き朝を小庭(さには)掃くなり (小天地)

世にあらん生きのたづきのひまをもとめ雨の青葉に一(ひ)と日こもれり(ゆづり葉の若葉)

ゆづり葉の葉ひろ青葉に雨そそぎ栄ゆるみどり庭にたらへり

みづみづしき茎のくれなゐ葉のみどりゆづり葉汝(な)れは恋のあらはれ

以上、伊藤左千夫の代表作品100首を簡潔にご紹介しました。




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