太宰治の亡くなった日は6月19日、その日は小説のタイトル「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼ばれています。
太宰治は、自死に際して「池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる」の伊藤左千夫の短歌を書き遺した話はよく知られていますが、この歌はどういう意味なのでしょうか。
また、他に太宰治自作の短歌はないのでしょうか。太宰治の短歌についてお知らせします。
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太宰治の桜桃忌
6月19日は太宰治の亡くなった、正確には入水した玉川上水から遺体が見つかった日です。
太宰治はなぜ亡くなったのか、理由は様々に取りざたされました。一人ではなくて、山崎富栄という女性と一緒に亡くなったからです。
ただし、女性がらみの問題ではなくて、その前にしばしば喀血しているなど、おそらくは健康状態が悪かったことが原因ではないかと思われます。
遺書には「小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」という文言と、それから他に、机の上に、一首の歌が書き遺されていました。それが下の歌です。
「池水は」の短歌
その短歌は、
池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる
作者は太宰本人ではなく、伊藤左千夫の歌の筆記です。
おそらく、玉川上水で死ぬことを計画していたため、伊藤左千夫のこの歌を選んだものと、玉川上水との関連が思われるのですが、万葉学者の中西進氏は、それとは違う解釈を持っていたようです。
伊藤左千夫の短歌については
伊藤左千夫短歌代表作30首 牛飼の歌 九十九里詠 ほろびの光
「池水は」の中西進氏の解釈
中西進氏は、元号「令和」の発案者でもある方なのですなのですが、この歌については、太宰治がこれから飛び込む水の様子を思ったのではなくて、この池の様子そのものが、太宰自身の状況を表すと考えられたようです。
なぜ他人の歌だったのか疑問の残るところだが、 文学博士の中西進氏によれば、太宰治本人を意識の混濁と考えると 、藤の花の影さえ水に写せない というくだりは小説を書けないという意味になる。―『あの歴史人物の意外な最期』より
実際に遺書の方に「小説が書けない」と伝えたのも上の通りなので、そのような解釈もあると思われます。
太宰治の他の短歌
太宰治の他の短歌は、先日聖書に記されたメモと一緒に発見された下の歌があります。
かりそめの人のなさけの身にしみてまなこうるむも老いのはじめや
この歌が詠まれたのは、パビナール中毒治療のため東京武蔵野病院に入院していた時のことです。
この時の日記はのちの『HUMAN LOST』ですが、その中にも、この歌の原型となる記述があります。
八日。
かりそめの、人のなさけの身にしみて、まなこ、うるむも、老いのはじめや。
これはおそらく入院中に日記として記されたものです。読点は聖書に「短歌」として書かれた時には、省かれています。
元々、太宰治は、読点が多い作家として知られています。中期には口述筆記がなされましたが、口に出して読むような感覚で書かれたことと何かしら関連がありそうです。
逆に言うと、そのような感覚で書かれた部分に読点が多いということもできるかもしれません。いずれにしても太宰の特徴でもあります。
『葉桜と魔笛』の短歌
もう一つの短歌は、小説『葉桜と魔笛』に出て来るもの。
待ち待ちて ことし咲きけり 桃の花 白と聞きつつ 花は紅なり
こちらは、読点ではなく、字空けが用いられています。
姉が、男性を装って妹に書いた手紙、その最後に「恥かしかった。下手な歌みたいなものまで書いて、恥ずかしゅうございました。」という設定のその歌です。
もう一首
季節には少しおくれてりんご籠持ちきたる友の笑顔よろしき 治
こちらは、太宰が学生時代に通ったという料理店にある色紙であるとのことです。
以上が太宰治が詠んだとされる短歌のすべてです。
やはり太宰の場合は短歌ではなく、本分の小説、特に、中期の作品がおすすめです。