伊藤左千夫

伊藤左千夫短歌代表作30首 牛飼の歌 九十九里詠 ほろびの光

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伊藤左千夫は小説『野菊の墓』で良く知られていますが、元はアララギ派の主要な歌人でありました。

短歌の他、万葉集に倣って長歌をたくさん作り、また、正岡子規の考え方を継承した初期のアララギを率いて、斎藤茂吉、土屋文明などの著名な後進をも育てました。

伊藤左千夫の短歌代表作品30首を以下に掲載します。

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伊藤左千夫の短歌代表作品

牛飼いの歌

牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる

現代語訳:牛飼いの仕事をしている私が、歌を詠むその時、世の中の新しい歌がまさに起こるだろう

歌集の最初はこの歌で始まります。伊藤左千夫は牛乳搾乳業者で、牛を育てて牛乳を宅配するという仕事を正業としていました。大変な働き者で、一日14時間も働いたとも伝えられています。

この歌は、新しい短歌を詠もうとする心構えが高らかに宣言されています。なお「新しき」は「あらたしき」との読みです。

うからやから皆にがしやりて独居(ひとりゐ)る水(み)づく庵(いほり)に鳴くきりぎりす 明治33年

現代語訳:家族と他の人もみんな逃がしてやって自分ひとりが残っている水の上がった家に聞こえるきりぎりすの声

伊藤左千夫の住んでいたところは、平地であり、不運にも度々水害に逢いました。その様子は繰り返し歌に詠まれています。

池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨降りしきる  明治34年

太宰治が色紙にこの歌を書いたことで良く知られています。亀井戸の藤を見に訪れた時のことです。

炉に近く梅の鉢置けば釜の煮ゆる煙がかかるその梅が枝に  明治38年

伊藤左千夫は茶道をたしなみ、茶碗などを大変好み、また晩年には茶室を作ったと伝えられています。

 

桜ちる月の上野をゆきかへり恋ひ通ひしも六とせ経にけり

正岡子規の忌日に詠まれた歌。子規の忌日、ほととぎす忌には、一日家に籠るのが毎年のことでありました。左千夫も同門の長塚節も子規に対する敬愛の念は終生変わりませんでした。なお、「上野」というのは、当時子規の住んでいた根岸庵を指します。

日のめぐりいくたび春は返るともいにしへ人に又も逢はめやも 明治40年

現代語訳:何度春が巡ってきても古き人にまた会えることはないのだろうよ

同じ子規忌の歌。

七人(ななたり)の子の親なれば何ごとも手まはりかねつうとしとおもふな

仲間内に近況を伝えるための歌です。左千夫は大変に子だくさんで、また子煩悩でもあり、子どもを題材にした歌もたくさん残しています。
現代語訳:「七人の子どもの親なので忙しくて何ごとも手が回りません。嫌がらないでくださいね」

世のなかに光も立てず星屑の落ちては消ゆるあはれ星屑 明治41年

現代語訳:「この世に光も立てることなく、遠くの空で星屑が落ちては消える。あわれな星屑よ」
人の才能を惜しむ歌のようですが、この頃、左千夫ア妻帯していながら、恋人を持っていたようで、相聞の歌がたくさん残されています。
有名な小説の「野菊の墓」も同様の背景があったからのようです。

九十九里詠

左千夫の故郷であった、南総の海、九十九里を詠ったものは「九十九里絶唱」とも呼ばれ、左千夫の代表作の一つと言われています。

人の住む国辺を出でて白波が大地両分け(ふたわけ)しはてに来にけり

天雲の覆へる下の陸(くが)広ろら海広らなる崖に立つ吾れは

天地の四方(よも)の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り

白波やいや遠白に天雲に末辺こもれり日もかすみつつ

高山も低山もなき地の果ては見える目の前に天し垂れたり

春の海の西日にきらふ遥かにし虎見が崎は雲となびけり

砂原と空と寄合う九十九里の磯ゆく人等蟻の如しも

関連記事:伊藤左千夫の短歌代表作「九十九里詠」九十九里の波の遠鳴り日のひかり青葉の村を一人来にけり

子を亡くした嘆き

7人の子だくさんではありましたが、その1人、七女の七枝が1歳10ヵ月で、庭の池に落ちて亡くなってしまいます。その時の悲しみを左千夫は次のように詠んでいます。

み仏に救われありと思い得ば嘆きは消え消えずともよし

現代語訳:亡くなった子が仏さまに救われていると思えば嘆きは消えるだろうが、しかし、嘆きが消えなくもよい。自分は生涯、子を失った悲しみを心に持ち続けていこう。

 

あたたかき心こもれるふみ持ちて人思ひ居れば鶯のなく  明治42年

現代語訳:「温かい心のこもった手紙を読み終割って手に持って、人を思っているとふと鶯が鳴く」

ほのぼのとした情感の伝わる歌です。

 

世の中を怖ぢつつ住めど生きてあれば天地(あめつち)は猶吾を生かすも 明治44年

現代語訳:「世の中をこわごわ思いながら住んでいるけれども、生きていれば、空も地も私を生かしてくれるのだなあ」

実際には左千夫の言動はかなり堂々とした大胆なものが多かったと周囲からは回想されています。
しかし、あるいは、内心は案外このようなものだったのかもしれません。

結婚後の相聞

左千夫には結婚後に恋仲になった人があったようで、真っ直ぐな相聞歌や様々に思い悩み、嘆く歌も合わせてたくさん残されています。

夕ぐれの三日月のうみ雲しづみ胸しづまりぬ妹に逢ひし夜は  明治44年

現代語訳:「夕暮れの三日月が海に沈み、また雲も静まって、そのように私の心もしずまったのだ。妹に会った夜なので」

上句「くもしづみ」までは、胸の「しづまりぬ」を引き出す序詞の役割をはたしています。

 

世に薄きえにし悲しみ相歎き一夜泣かむと雨の日を来し  大正元年

現代語訳:「世に薄い縁を共に悲しみ嘆いて一夜鳴こうと雨の夜を来た」

八つ手葉にをりをりひびく軒雫人はもだして夜(よ)は沈むかも

現代語訳:「八つ手の葉に軒の滴の雨の音が響いている。妹が黙っていて、その音を聞きながら夜が更けていくのだなあ」

曼珠沙華ひたくれなゐに咲き騒(そ)めく野を朗かに秋の風吹く  

秋に曼殊沙華が野に咲く情景「ひたくれなゐ」が、花色を表しています。

『ほろびの光』晩年の代表作

晩年の代表作と言われる一連です。斎藤茂吉がこれを読んで、感動してすぐさま伊藤左千夫の家を訪ねたと言います。

おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落ち葉深く

現代語訳:庭におり立ってみて思いがけない今朝の寒さに驚いた。みればわが庭にもしとどに露にぬれた柿の落ち葉がふかく散りしいている

左千夫晩年の絶唱と言われる一連。寒さを感じて見まわした庭が、既にこんなにも晩秋の気配が立ち込めているのか。
その情景から、それが人生の嘆きへと移行していく一連の冒頭の名高い歌です。結句は連体止め。

一連の歌:

鶏頭のやや立ち乱れ今朝や露のつめたきまでに園さびにけり

秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花

鶏頭の紅(べに)ふりて来し秋の末やわれ四十九の年ゆかんとす

今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅(ほろび)の光  大正2年

現代語訳:今朝の秋の草に下りている朝露の何と冷え冷えと身に迫ってくることか。すべてがもはや滅びであるかのようなかすかな光を帯びて。

光を詠いながら、それが明るい光ではなくかすかな「ほろびのひかり」としての情景を表しています。

表現技法:
「ひやびやと」の畳語、「秋草や」の詠嘆で3句切れとする。「露」という小さなピンポイントのものから「や」で一休止、そこから一気に「すべて」とつないで、庭とそれを包む光の広い範囲へ視界を転じていく構成です。

左千夫自身はそれを「声調のほびき」として後進に伝えました。土屋文明は自分の歌への左千夫の添削で、「や」の上手さを語ったものがあります。

晩年の九十九里詠 死の二日前の帰郷

大正2年に左千夫は九十九里浜のある故郷へ帰郷し、これが最後の訪れとなりました。

九十九里の波の遠鳴り日のひかり青葉の村を一人来にけり

現代語訳:九十九里の浜の波の遠鳴りが聞こえ、日の光が揺れる青葉の季節の村に一人で帰ってきたのだよ

表現技法:
3句切れ。「波の遠鳴り日のひかり」に弾むような反復(リフレイン)があります。

続く2首。

椎森(しいもり)の若葉円(まど)かに日に匂ひゆききの人らみな楽しかり

稍遠(ややとほ)く椎の若葉の森見れば幸運(さち)とこしへにそこにあるらし

現代語訳:少し離れたところに椎の若葉が美しい森が見えるそこに、幸せが永遠にあるかのようだ

当時、歌の師弟での軋轢が尾を引いており孤独だった左千夫に、束の間の帰郷はどんなにか気が休まったと願わずにはいられません。

それからわずか2日後、左千夫は脳出血で急逝、わずか48歳の生涯を閉じました。

-伊藤左千夫

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