今日の朝日新聞の書評に俵万智さんの書いた、若山牧水の本が紹介されていました。
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山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君
上の歌について、俵さんは「山を見よ」と「山に日は照る」の間に視線を移す時間があり、海も同様、そして「いざ」にもこれからという時間があり、細切れ感を与えそうな句切れが、むしろ一首を大きく見せていると評価しているといいます。
対話のダイナミクス
「山を見よ」の初句は、、この五文字で文章としては終結しています。
なので、ここで句切れということになります。初句に句切れのあるものを「初句切れ」といいます。
「山を見よ」のあとに「山に日は照る」。これは見た通りの山の描写ですね。
次が「海を見よ」、そして「海に日は照る」と続くわけですが、山を見よ、と言っているのが恋人であるとすると、
「山を見てご覧」
「山に日は照っているのですね」
といったような対話を想定することもできます。
あるいは、必ずしも恋人との会話ではなくても、「山を見よ」が、呼びかけであり、「山に日は照る」のは、「山を見よ」に応える自分自身の独白であると考えることもできます。
その場合の想定される、これらの句の「声音」、あるいは強弱は少し違います。いってみれば、呼びかけの「山を見よ」は「強」であり、「山に日は照る」は「弱」が自然に想定できるでしょう。
それが、「山」と「海」で二回繰り返されます。各句冒頭の、強い「山」弱「山」、強「海」弱「海」は、恋人の呼応と唱和、あるいは、牧水の外と内とのこだまのような呼応であるともいえます。
4句までが、このような「対話ーダイアローグ」になって、声調上も韻を踏みながら「強・弱・強・弱」というダイナミクスを伴っている。それがこの歌の大きな特徴だと思います。
呼びかけと応えの一体化
「いざ唇(くち)を君」というのは、「さあ、口づけしましょう」ということで、上の句は口づけへのいざないであるわけですが、呼びかけと応えが二度繰り返されれば、口づけに応えない恋人はいないでしょう。
そのようなしつらえを置くことによって、スムーズに恋人との一体化、つまり、それが歌では、詠み手の心に起こすべきこの歌への共感であるわけですが、に至るようになっているこが、この歌の「仕掛け」であるわけです。
もっとも歌人としての配慮というよりは、やはり、眼前の恋人への強い気持ちが、歌の中のこのようなシチュエーションを自然に作り出しているものと思います。
一連の歌
同じ『海の声』には最初の方に
海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし
というものもあります。
恋に酔った自分の目には、「偉大な山も海も目に入らない」ということで、「海を見よ」以前に、海山がまず「否定」を伴う形で提示されています。
「山を見よ」においては、まるで海山が作者の呼びかけに答えるかのように、陽の光に照り輝いている姿を見せるのですが、ここではまだ、海山はそのように、作者に味方するものとはなっていません。
対して、「山を見よ」の方では、恋に不安な作者の目には映らなかった海山が、恋人の合意と共に、「山に日は照る」ひときわ明るいものとして、くっきりと作者の眼前に表れてくるものとなっています。
とにかく、歌の上では、海も山も、見えるものすべてを歌人が自分の心境を表すために味方につけてしまう。これが牧水のすごいところです。
接吻の場面一連の歌
一連の他の歌と合わせて、この接吻の場面は、きわめて調子の高いものとなっています。
ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひなから死せ果てよいま
接吻くるわれらがまへに涯もなう海ひらけたり神よいづこに
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
何という美しい歌の数々でしょう。
このような高揚感をもって恋人と一体となった牧水は、やがて恋人園田小枝子との破局を迎えます。
しかし、恋の不安も、恋人と共にある高揚も、そして破局の後の失意も、そのまますべて歌に表し得た牧水は、何という才に富んだ幸せな歌人だったかと思わずにはいられません。
詩の中では天地もが詩人の仲間であり、牧水は望むときにいつでも「詩」の心をもってそれらと一体化することができた。
牧水が旅好きであった所以は、あるいはそのような心の持ち主だったからかもしれませんね。
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