うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり 斎藤茂吉『ともしび』  

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うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり 斎藤茂吉『ともしび』

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うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり

斎藤茂吉『ともしび』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『ともしび』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

斎藤茂吉がどんな歌人かは、斎藤茂吉の生涯と代表作短歌 特徴や作風「写生と実相観入」 をご覧ください。

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うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり

読み うつしみの わがなかにある くるしみは しろひげとなりて あらわるるなり

歌の意味と現代語訳

この世に生きている私の中に巣くう苦しみは白べとなって現れるのだ

出典

「ともしび」大正14年

歌の語句

・うつしみの…「現身」と書く。
万葉集では「うつせみの世」「うつせみの人」「うつせみの命」などの例がある。
意味は「この世の人。生きている人。」「この世」といったものだが、独特のニュアンスがあり、「死」との対比で用いられることも多い。「うつそみ」も同じ。

例:
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟とわが見む (万葉集 大伯皇女)

修辞・表現技法

句切れなし

 

解説と鑑賞

作者は留学から帰って、火事で焼失した自宅と病院の再建をしようとも、すぐには資金の調達もできず、留学を終えた喜びや安堵に浸るどころではなかった。特に資金関係には、大変な苦労をしたようだ。

そのような際に、「心労で髪が白くなった」というのをはよく聞かれるが、「なった」のではなくて、苦しみそのものが、この白い髭となって、自分の身から現れてくるという表現が独特でもある。

抽象的であり、主観的でもある「苦しみ」を、白髭として可視化して提示することによって、「苦しみの存在と苦悩の深さを確たるものとしている。

「苦しみは」と抽象名詞を主語にして、具体的な事物への転換を「あらはるるなり」としている。

髭が白くなるのは、単なる結果なのだが、それを「現れ」というところに、さらなる作者の主観がある。

佐藤佐太郎の評

「焼けあとに湯をあみて、爪も剪(き)りぬ」という詞書がついている。悲哀のうちにあわただしく日を送っていたが、たまたま心身とも安からなひと時があって、自分自身をいたわるように省みた歌である。そしていまさらのように、白毛のあるのに気づいて歎くのである。

「うつしみの」は「現身の」であるが、「我」に続けて枕詞風に使用している。以前にも以後にもしばしば使っているのは、「我」を生き身として感じる傾向が強かったこと、こういう音調がすきだったことによるだろう。

火難による打撃は非常なものであったろう。その苦悩が直接に「白ひげとなりてあらはるる」と感じたのである。直観によって強く言ったところにこの歌の詠嘆がある。「なり」で止まる結句の力強さなど注意していい。「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

うつせみの吾(あ)がなかにあるくるしみは白(しら)しげとなりてあらはるるなり

ひとりこもれば何ごとにもあきらめて胡座(あぐら)をかけり夜(よる)ふけにつつ

ここにもほそく萌(も)えにし羊歯(しだ)の芽(め)の渦葉(うづは)ひらきて行春(ゆくはる)のあめ

湯をあみてまなこつむればうつしみの人(ひと)の寂(さび)しきや命(いのち)さびしき




-ともしび

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