島木赤彦の常宿「ぬのはん」アララギ派の歌会が開かれた離れ「赤彦の間」  

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島木赤彦の常宿「ぬのはん」アララギ派の歌会が開かれた離れ「赤彦の間」

2019年1月24日

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諏訪で生まれ育ったアララギ派の歌人島木赤彦にゆかりの深い宿があると聞いて、HPを見てみました。その名は「布半」ぬのはん。
諏訪湖畔にあるとてもいいところで、島木赤彦の展示物もあり、同じ離れに止まることもできます。布半と赤彦のつながりについて紹介します。

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島木赤彦の諏訪の常宿「ぬのはん」

「ぬのはん」は1848年、江戸時代に創業された歴史の古い宿で、長野県上諏訪駅からも近い、諏訪湖畔沿いにある宿です。

島木赤彦が泊まっていたのは、この中の離れに当たり、現在も一人3万円くらいからで宿泊可能。
離れは他に3つあり、美空ひばりさんなども止まったことがあるそうです。

「赤彦の間」には、写真や手紙など、貴重な資料が展示されているということです。

布半HP

島木赤彦と布半

島木赤彦は、長野で明治36年に短歌雑誌「氷むろ」を創刊。のちの比牟呂です。

それで、歌会を開催した場所が布半であったため、斎藤茂吉はもちろん、他のアララギ派の歌人も、比牟呂の同人も多数参加しました。

明治37年には、アララギの源流となった根岸短歌会の短歌雑誌「馬酔木」の中心人物だった伊藤左千夫も、この地を訪れ、この旅館で歌会が催されました。

また、長塚節も、その翌年に来訪。歓迎会兼歌会が開かれ、ことあるごとに、この布半が拠点となったのです。

歌会というと、たくさんの人が集まりますし、また飲食もするため、旅館のようなところが必要だったのでしょう。

島木赤彦は、その後、アララギの経営を継ぎ、東京へ転居。その後は病を得て長野の「柿蔭出房」で療養しました。

赤彦の臨終に際して駆けつけた茂吉は、上諏訪駅からも近い布半に先に立ち寄り、容態を尋ねたといいますから、旅館と客というより、ほとんど親戚に近い間柄ではなかったでしょうか。

今では、赤彦の止った離れは、諏訪市中町より諏訪湖畔に移築後もそのまま保存されており、赤彦とアララギ関連の資料も展示されていますので、一度は泊まってみたい宿だと思います。

「ぬのはん 布半」は『プロが選ぶホテル旅館百選』料理賞10年連続受賞!

 




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