詩歌

吉野弘代表作詩「夕焼け」鑑賞と解説 受難者の心の痛みへの同一化

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こんにちは。まるです。
3日の朝日新聞朝刊に、吉野弘さんの詩「二月の小舟」が紹介されました。
今日は吉野弘の代業作品として、広く愛誦されている「夕焼け」を取り上げます。

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代表作 詩「夕焼け」 吉野弘

夕焼け 吉野弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて-----。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

吉野弘「夕焼け」鑑賞

この詩はひろく一般の人々に愛誦されている詩です。
ひとつの状況が、ひとつの車内風景が、詩人の中に事件として飛び込んできたのです。

二度まで席を譲った娘

「事件」の内容は単純です。
電車の席に座っていた一人の娘さんの前に高齢の乗客が立ったので、娘さんは席を譲りました。

この譲るという行為は、あくまで自発的な物であり、誰かに求められるものではありません。

そして、2回目、

別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。

この部分を読むと、「としより」は、他の誰にも見向きもされず、配慮もされなかったことがわかります。
つまり、他の誰もが席を譲ることはなかったので、「としより」は、押されて娘さんの前にやってきたのです。

三度目はなぜ席を立たなかったのか

そして、詩は次のように進んで行きます。

可哀そうに
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった

1回目、2回目どちらも、席を譲ったのなら、今度もまた同じことをすればいいだけです。席を譲るのが、望ましい行為であるとこの娘さん自身に認識されているのなら、そうするのが自然でしょう。

しかし、娘さんは今度は席を立たなかったのです。それはなぜだったのでしょうか。

「勇気」の問題とする鑑賞文

詩の鑑賞の中には、それを「勇気」の問題だとする人がいます。

としよりに席を譲るというのは、やさしい心の持ち主なら誰でも、そうしようと思うことでしょう。いいことです。ところが、そのいいことをしようと思いながら、実際に席を譲るのには、ほんのちょっとですが、勇気がいります。
「夕焼け」の娘は、二度までは勇気を出して、自分が善行をするのに堪えました。しかし、三度目は。(黒田三郎『詩の味わい方』)

ということです。

しかし、私自身は、娘さんが3度目に席を譲らなかった理由は、上の「勇気」の問題とは違うように考えています。

「夕焼け」の「受難」の意味

その答えは、上の引用にあると思います。つまり「横あいから押されてきた」というところです。

娘さんは、混んでいる電車で、他にも人がたくさんいるのに、自分の他には、誰も「としより」に席を譲っていない、そんなことはしていないということがわかったのです。

そして、「としより」は、そのために、自分のところにばかり巡ってきてしまうということが。

娘さんの感じたことは、勇気というよりも、その不公平性だったのではないでしょうか。

弱者を負う人は誰か。そして、進んでその役目を負い続けるとどういう風になるのか、ということが、娘さんにはわかってしまったのです。

その結果、娘さんは、自分を弱者ではなく、自分を他の乗客と同じ強者の側に置くことにして、席に座り続けるとする行為を真似ることにしたのです。

弱者への心の通路

そうして、弱者への心の通路を閉ざすことにしてしまった。自分の目の前に立っている人の心が見えても、見えない振りをすることとしてしまったのです。

しかし、その結果生じる葛藤は、娘さんには快いものではなかったのです。

そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて-----。

「としより」を前にして、自分が座っているということに、誰もが呵責を感じない。

不公平を感じて、他の乗客を真似ようとしたものの、この娘さんには逆にそれがつらいものとなってしまった。

そのことを詩人はどうとらえたのでしょうか。

詩人吉野弘のとらえた「事件」

席を立たなかった大勢の人は、何も感じてはいなかったでしょう。けれども、詩人は、その娘さんの内面がわかったのです。

娘さんは何かを詩人に向かって話したわけではありません。しかし、人の心がわかるということがある。あらためて考えてみると、それはとても不思議なことです。

詩人が視覚的にとらえたのは、「席を立たなかった」というその前2回とは違う、マイナスの行動、「下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせ」「固くなってうつむい」た娘さんの様子だけです。

それなのに、詩人は「やさしい心に責められ」て「つらい気持で」娘さんがいるということがわかるのです。

そして、そこから一つの真理をも導き出しています。

やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。

この言葉は、娘さんの内面を推し量ると同時に、民衆というものの持つ、ある種の残酷さをも示しています。

そして、

何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。

というのは、これがその時の詩人の心の状況です。

人の置かれた状況を見て、自分を重ね合わせてみると、その人の感じていることと、同じことが自分にも感じられてくる。

それが、詩の主題です。

すなわち、

弱者に無関心である大衆の中にあって、思いがけないところで起こる一つの「受難」を見出したこと。

そして、もう一つが、一人の人が感じているだろう「受難」を無言のまま見聞きした詩人の中に生じる、同じ心の痛みです。

その不思議な同化の作用が、この詩を生み出す源となっています。

娘さんが弱者に対して心の通路を閉ざしてしまったその代わりに、詩人は新たに娘さんへの心の通路を見出している。

一つの共感が捨てられたが、もう一つの新たな共感が生まれているというのは、一つの救いでもあります。それが示されるのがしの最後の部分です。

下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

小さな事柄、またありふれた事柄でもありますが、その小さなことが、ひとりの人に及ぼす痛みはけっして小さくはないことを詩人は見過ごしません。

その痛みは、娘さんには、一つの刻印のように残り続ける出来事となったでしょう。しかし、詩人にとっては、その刻印は「美しい夕焼け」のようなものでもあった。

やさしい気持ちの裏返しのように、受け取らなくてはならない心の痛み、目に見えず詩人が受け取ったものが、夕焼けという視覚的なものに置換されて、最後に提示されます。

目の前に広がる夕焼けの空。そのイメージを通して、一人の見知らぬ人の内面に同化して寄り添う詩人のあたたかい心を、この詩を読む人は、皆一様に感じとることができるでしょう。

詩人 吉野弘 プロフィール

よしの‐ひろし【吉野弘】
[1926~2014]詩人。山形の生まれ。昭和28年(1953)、詩誌「櫂(かい)」に参加。平易な言葉で人間の温かみを描いた叙情詩で知られる。詩はやさしい文体で日常のなかの生の不条理、またそれへの愛を歌ってナイーブ。機智(きち)にも富む。

昭和46年(1971)、詩集「感傷旅行」で読売文学賞受賞。他に詩集「幻・方法」「自然渋滞」など。





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