子どもの日を題材にした短歌にはどのようなものがあるでしょうか。
子どもの数が多かった時代と比べて、少子化の今、子供たちにはいっそう元気に育ってほしいです。
その願いを込めて、今日は子どもの日に読みたい短歌を集めてみました。
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子供の日に読みたい短歌
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子どもの日のアイテムは、鯉のぼり、菖蒲、兜、五月人形などがあります。
それぞれのアイテムを詠み込んだ短歌が多く見られます。
鯉のぼりの短歌
「子どもの日」といえば、まっさきに浮かぶのが鯉のぼりでしょう。
かの喬(たか)き欅をわたり来し風かのぼりの鯉の彩りを揉む
作者:田谷鋭
鯉のぼりは、5月の風物詩のひとつ、古くからある空のディスプレイです。
上の歌では高い欅から吹いてくる風ということで、鯉のぼりが同じく高いところにあるのがわかります。
ビルのひま来たりてわづか轟音の静まるここに鯉のぼり舞ふ
作者:田谷鋭
都会のビルの間のわずかな空の間を泳ぐ鯉のぼりなのでしょう。
「ひま」とは間(あいだ)、隙間のこと。
緋の鯉は竿にからめり赤坂の台町に昼の風つよくして 竿にまとわりつく緋色の鮮やかな色の鯉のぼり。
からんでしまった鯉のぼりも題材になります。同じ作者。
菖蒲を詠む
端午の節句には菖蒲の葉を切った、菖蒲湯というお風呂に入り、子供の健康を願います。
菖蒲もまた、子どもの日を表すものとなって、歌に登場します。
宵の湯に浮きて青あをしわが庭の若萌を切りし菖蒲(しょうぶ)いくすぢ
作者:田谷鋭
庭に生えている菖蒲を手ずから切って湯に浮かべる作者。
歌から察するに、子煩悩な方であったのでしょうか。
うす赤き茎匂ひたち菖蒲湯にをのこ子ひとり浄められゆく
作者:小宮山久子
菖蒲湯の入浴の風景が美しく歌われています。作者にとっては、菖蒲湯は、子供が清まっていくとのイメージなのですね。
菖蒲一束わがしかばねをおほはむに恥づ人殺し得ざりしこの手
作者:塚本邦雄
有名な前衛短歌の歌人。
おそらく塚本は子供の頃に菖蒲湯に浸かったことがあったのではないかと思います。
それを年を経て大胆にも、自分のしかばね、つまり死後の自分を覆うものとしてイメージしたのです。
子どもの日を連想させる「菖蒲」から、「人殺し」への転換がインパクトのある歌となっています。
兜を詠む
兜は男児を表す子どもの日のアイテムです。
昔は、必ず男の子が生まれると飾る習慣でした。
新聞の兜を父は折らんとす今度五十の息子のために
作者:藤島秀憲
これは実は子供を詠んだ歌ではなくて、介護が必要となった認知症の父が、かつて端午の節句にしたように、息子の兜を新聞で折ろうとするという、悲しくも切ない歌です。
父親が男の子の端午の節句を祝う心が、老いてもまだ残っていることに打たれます。
そうして、願いを込めて幾度も折った兜の折り方だからこそ、それが年老いても再現されているのです。
子どもを詠む歌
さらに子どもを詠んだ歌といえば、歌人であるよりも妻と母でありたいと願った河野裕子の作品を思い出します。
ものの隅しるく見えくるひのくれは母よ母よと下の子が呼ぶ
突風の檣(ほばしら)のごときわが日日を共に揺れゐる二人子あはれ
しらかみに大き楕円を描きし子は楕円に入りてひとり遊びす
ああ眠いああ眠いと茶碗の中に落ちるやうにぞ子は飯を食ふ
子供だった時は案外短く、忘れ去られてしまいますので、短歌に出来るだけ詠みたいものです。
作者は、歌人であるより、母や妻でありたいと言った人で、ごく日常的な子供の姿がスナップ写真のように、貴重な作品の中に息づいています。
子どもの頃の回想を詠む
子供の日は、子供のためのものですが、誰しもがかつては子供であった時を持っています。
短歌の中では、かつて子供であった自分に思いを馳せることもできますね。
鮎追ひて瀬をわたりゆく少年がはつと目覚めて中年となる
作者:桑原正紀
少年であった自分との距離は、遠いのか近いのか。分身のような子供の時分にふっとタイムワープするような感覚の歌です。
ごはんよと母に呼ばれし頃のくに麦の穂しんと空を指してた
作者:源陽子
母の呼ぶ日も遠くなれば、麦の穂が立っている国もまた、今は心の中にのみ残り続けるのでしょう。
バンザイの姿勢で眠りいる吾子よそうだバンザイ生まれてバンザイ
作者:俵万智
最後に俵万智さんの歌を。
子どもの日には、毎年出生率が公表されます。地域によって違いはありますが、減少は避けられないもの。
「生まれてバンザイ」は、一人一人のお母さんにとっても、そして、日本全体にとっても、「バンザイ」を言いたいこととなっています。
未婚、既婚を問わず、母子への支援も欠かせないものとなるでしょう。
終りに
今回は現代の歌より「子ども」がテーマの短歌をご紹介しました。
子供の日がきれいな5月であってよかった!
皆様も楽しい一日を過ごされますように。