新元号「令和」考案者の中西進氏が反論/万葉集「令」は命令でなく「うるわしい」  

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新元号「令和」考案者の中西進氏が反論/万葉集「令」は命令でなく「うるわしい」

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風薫る5月となり、いよいよ新元号「令和」の年が始まりました。新元号「令和」を考案したのは誰かということは、当初は伏せられていましたが、5月になって万葉学者の中西進氏であることが報道されました。

また、日経誌が新たに中西氏のインタビューを紹介しています。そこにおいて、これまでの「令和」をめぐる議論に考案した人としての考えを加味してこうという意図が読み取れます。

インタビューの主要な箇所を要約してお伝えします。

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「令和」の考案者は中西進氏

元号が決定したという4月中の報道では、考案者が誰かということははっきりと伝えられていませんでした。

5月に入り、「令和」の考案者は万葉学者の中西進氏であることを公表。一度インタビューも掲載されました。

その後、同様に日経新聞が、4月30日頃の中西氏のインタビューを掲載しましたが、今回は、中西進氏が考案者であることが日経誌においてもほぼ明らかになりました。

同時に、「令和」に対する疑問や、これまでの議論、批判に対しても、より明確に答える内容となっています。

 

中西進氏インタビュー 日経新聞

令和の「令」と「和」が含まれる「梅花の歌32首」の序文部分

「初春令月 気淑風和--初春の令月にして、気淑く風和ぎ」

「令和」の読みは「うるわしい」

先日、朝日新聞に取り上げられた「令」の読みは「りょう」ではないのか、という中国思想史をご専門とする小島毅教授の疑問と提案がありました。

中西氏は「令」を訓読みするという考えを提示しています。

一般的に訓読みをしない漢字だからなじみが薄かったのですが、『令(うるわ)しい』という概念です。『善』と並び、美しさの最上級の言葉です。これと『和』を組み合わせることで、ぼんやりした平和ではなく、うるわしい平和を築こうという合言葉になる

「万葉集」と中国→グローバル

また、令和の「令」と「和」の字がある大伴旅人の序文が、中国の詩文、文選「帰田賦(きでんのふ)」に倣ったものであるということは、当初より明らかになっています。

「初めて国書から採用された」といえ、ルーツは漢籍ではないかという疑問もありました。

それに対しては、

国書か漢籍かという言葉自体、誤解を生みますね。万葉集は中国を決して排除していません。文化の東漸のなかで形成された、グローバルな口承文芸です。それが後年の古今集などではかなり国家的になる。

とも語っています。

「令和」批判への反論

この点についは、中西氏は4月12日の万葉集講座で語ったことが伝えられておりますが

「梅花の歌の序」の「令月」は、中国の詩文『文選』においては、2月の意味であるが、万葉集では1月の意味で使われている。そのままではないということ。また、「和」の使われ方も違うと強調しています。

その他、「『令』が命令の意味を含むとの指摘はこじつけだ」ともコメントしたとも伝えられています。

それと主に、「令」は元々「善い」「立派な」「すぐれた」という意味で、「令嬢、令夫人、令息」などの用例を挙げています。

「万葉集」と戦争

また、「海ゆかば」など万葉集の一部が戦意高揚に利用されたことについては、

『海ゆかば』『醜の御楯(しこのみたて)』『御民(みたみ)われ』といった言葉ですね。4500首もある万葉集のなかの、ほんの一部に着眼して国民唱歌やスローガンが生まれた。万葉集に罪はありません

 




序文作者、大伴旅人の衰退

このインタビューで、私自身が最もおもしろく思ったところは、当時の大伴旅人の政府における位置とその歴史的な背景です

作者大伴旅人は、九州の長官、大宰帥(だざいのそち)で、たいへん位の高い人でしたが、この宴を開いた前年には、平城京では『長屋王の変』が起き、藤原4兄弟による独裁が始まった。

旅人が大宰府に赴任したのは、藤原氏の台頭による、いわば左遷であったのです。

大宰府で都への望郷の念を詠んだ旅人には、「中央の政局への複雑な感情があったに違いありません」と中西氏は言います。

そんななかで開いた宴の序文には、権力者にあらがいはしないが屈服もしないという気構えが見て取れます。本当は、どんなに悔しかったでしょう。

それを抑えて、悠然と風流を楽しんで宴を張る。不如意のときの見事な生き方を示してくれています

1300年前の風雅の意味

その中西氏の解説を読んで、初めて腑に落ちたところがあります。

そうだったのか。大伴旅人は、遠く九州後に左遷となり、その地で赴任後まもなく妻をも失ってしまいます。

遠い地で詠んだのは、望郷の歌であり、妻を亡くしたら、妻の挽歌を詠み、自らを慰めた旅人。

けっして 幸せいっぱいではない生活の中で、中国の風雅に倣い、皆で楽しむべく宴を催し、集まった人の詩歌を書き留めて残そうとした大伴旅人。

「初春令月 気淑風和--初春の令月にして、気淑く風和ぎ」

これが書かれたのが、730年と伝えられていますので、約1300年前となるわけですが、1300年前のその言葉にわれわれは何を感じるべきでしょうか。

「初春の令月」を「命令」と思う人はあまりいないと思います。

また、中国の詩の影響があるからと日本のものでないと排斥しようとも思えません。そもそも、海外文学の影響を受けていない文学などはあり得ないからです。

というより、その頃の日本において、中国の文献を読んだとは、勉強熱心でうらやましい立派なことではないでしょうか。

 

大和歌「やまとうた」の誕生

エッセイストで編集者の嵐山光三郎さんは、「梅花の歌」の詠まれた梅花の宴は、「大和言葉によるヤマトウタが日本史上初めて登場した」場であると言っています。

中国の故事「蘭亭序」との共通店を挙げた上で、嵐山さんの言うのは「梅花の宴」のもたらした、意外な文学的な功績ともいうべき部分です。

「梅花の宴」の文学的な意味

主客併せて32名が梅の花を詠んだ試みは、後世の歌合せや連歌、さらには俳諧の連句の先駆けとして、新しい時代を開く快挙だった

つまり、新元号「令和」の出典という以上に、「梅花の宴」は文学面から言っても画期的なイベントであったともいえるのです。

終りに

以上、「令和」の考案者である中西進氏のインタビューを紹介しました。

新元号に対して、何を思うかは人によって違います。

私自身は「万葉集」を読み直すきっかけをもらって喜んでいますが、皆様におかれましても、新元号「令和」にまた、あらたな発想をつなげていってほしいと思います。

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