「猫の短歌」近代短歌篇 石川啄木,斎藤茂吉,島木赤彦,長塚節  

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「猫の短歌」近代短歌篇 石川啄木,斎藤茂吉,島木赤彦,長塚節

2019年8月10日

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猫の短歌、前回は現代短歌からご紹介しましたが、近代短歌でも意外なことに猫はたくさん詠まれています。

今回は近代短歌より、猫を題材にした短歌をご紹介します。

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猫の短歌、近代短歌篇

きょう2月22日は、「222」の語呂合わせから「猫の日」に制定されています。

最近はペットブーム、中でもずっと主流だった犬を抜いて、猫を飼う人の方が多くなりました。

そのため、現代短歌では猫が詠まれた作品をたくさん見かけますが、猫を詠んだ短歌は、それより古い近代短歌にもみられます。

ちょっと意外な気もしますが、石川啄木他の猫を詠み込んだ歌をご紹介します。

現代短歌の猫の短歌は、下の記事をご覧ください。

石川啄木の猫の短歌

猫を飼はば、その猫がまた争ひの種となるらむ、かなしきわが家

どちらも、猫は出てきますが、猫が主題ではなく、猫を題材に、家族のことを詠んだものです。

啄木の家は、生活が大変貧しく、また、そのためか、嫁と姑の仲が、ひじょうに悪かったのです。

そのため家の中は争いが絶えず、啄木もさすがにそれには困り果てていた様子がうかがえます。

せっかくかわいい猫を飼ってみれば、猫が何かしでかすとそれがまた争いの種となる。「かなしきわが家」に啄木のため息が聞こえてくるようです。

猫の耳を引っぱりてみて、 にゃと啼けば、 びっくりして喜ぶ子供の顔かな

こちらはうって変わって、猫を題材に、子どもの様子を詠んでいます。

猫を囲んで、父子が遊ぶ、啄木にもこの世な一面があったのだな、とほっとするような作品です。

斎藤茂吉の猫の短歌

斎藤茂吉の有名な猫と言えばこの短歌です。

猫の舌のうすらに紅き手ざはりのこの悲しさを知りそめにけり

猫の舌のざらざらした表面、それに舐められた時の、一種えも言われぬ感覚が詠まれています。

おもしろいのは「うすらに紅き」の色の形容に「手ざわり」と続けられているところです。

赤いのは舌の色であり、色は視覚なのですが、それが触覚と混然としており、それらを合わせた感覚的なところを表したかったのでしょう。

若干の官能性がありながら、その不思議なような「悲しさ」を初めて知ったという、繊細で感覚的で、感傷も感じられる作品です。

 

街上に轢ひかれし猫はぼろ切きれか何かのごとく平たくなりぬ

「街上に」というのは路上にということです。町で出会った猫のことですが、しかし、これは既に死んだ猫、というより、ほとんど物体となっているような猫です。

即物的な描写に恐ろしさまで感じますが、それもまた作者の感じたものそのものなのでしょう。

朝日新聞で、この歌を取り上げた、歌人の堂島昌彦氏は、猫の短歌現代短歌篇でも書いた、穂村弘の「シャボンまみれの猫が逃げだす午下がり永遠なんてどこにも無いさ」について、斎藤茂吉の上の歌から、穂村の「『シャボンまみれの-』までは一直線でつながっている、」としています。

 

過ぎらむとするのか否か不明にて歩道に来たる黒猫ひとつ

同じく、斎藤茂吉の『白桃』の作品。

街上の猫の一場面の切り取りですが、町に見かける猫のありがちな仕草を良くとらえています。

長塚節の猫の短歌

草臥(くたびれ)を母とかたれば肩に載る子猫もおもき春の宵かも
-長塚節

「くたびれ」というのは、「疲れ」のこと。漢字が「草臥」と書くのも面白いところですね。

春の夜に、一日の仕事を終えた疲労を母と語らっているとき、小猫がのってくる。それすらも重いと感じるような「疲れ」であるよ、というところなのですが、疲れと重さとの因果関係をもたせずに、そのまま感じたように歌っています。

疲れを詠いながら、平和な夜の風景です。長塚節(たかし)は生涯妻帯せずに、結核を病むまで母と共に暮らしました。

古泉千樫の猫の短歌

ま昼どき畳のうへにほうほうとの抜毛の白く飛びつつ

『青牛集』から。家の風景です。

これも平和でのんびりとした光景ですが、千樫は結核を病み自宅で療養していましたから、その折にとらえた情景であったかもわかりません。

島木赤彦の猫の短歌

わが家の犬はいづこに行きぬらむこよひもおもひいでて眠れる

島木赤彦の生涯最後の歌。

これは犬の歌なのですが、斎藤茂吉の書いた『島木赤彦臨終記』によると、最初はこれを口述筆記で書きとらせるときに、赤彦は隣に猫が喉を鳴らしていたために、「わが家のはいづこに行きぬらむこよひもおもひいでて眠れる」といったそうなのです。

そして「しばらくして、『ちがつた。ちがつた。猫ぢやない。犬だわ』と云つて笑つた。これは数日前に居なくなつた犬のことを気にして詠んだ歌である。」と茂吉は続けています。

胃がんだった赤彦の様態が悪いために、斎藤茂吉は見舞いに来ていたためこの場に居合わせました。

その模様を『島木赤彦臨終記』に書き残しています。

赤彦が亡くなったのはその約2週間後ですので、この時も犬と猫を取り違えるほど、赤彦はかなり弱っていたのでしょう。

しかし、死期が迫っていた赤彦にとっては、犬か猫かよりも、「どこへ行ったのか」に重ね合わせて、魂の行方について考えていたに違いありません。

この頃の、島木赤彦の他の歌が、心境をそのまま表しています。

魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り

終わりに

猫というのは、家の中で飼われる身近な動物であるために、作者の生活状況や心境を代弁するものとなっています。

猫を飼っている人はもちろん、あるいは外で猫を見かけたら、皆さんもぜひ歌に詠んでみてくださいね。




-季節の短歌

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