猫の短歌、猫を詠んだ短歌にはどのようなものがあるでしょうか。
きょう2月22日は、猫の日、有名な猫の短歌を現代短歌より探してみました。
また、穂村弘さんの「シャボンまみれの猫が逃げだす午下がり永遠なんてどこにも無いさ」の歌と解釈も合わせてご紹介します。
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猫の短歌
きょう2月22日は、「222」の語呂合わせから「猫の日」に制定されています。
最近はペットブーム、中でもずっと主流だった犬を抜いて、猫を飼う人の方が多くなりました。
そのため、現代短歌でも猫が詠まれた作品をたくさん見かけます。
以前の朝日歌壇のコラム「うたをよむ」にも、猫の短歌が掲載されたことがあります。
その宇都宮敦さんの短歌から、現代短歌の猫の歌をご紹介します。
近代短歌の猫の歌は、下の記事をごらんください。
飼い猫の短歌
飼っている猫を詠んだ歌、ペットとの日常が歌に表されているものです。
宇都宮敦 『ピクニック』
夏 耳に光をすかしネコたちは網戸をのぼる やめれ やぶれる
扇風機のコードに飽きて湯上りの僕の髪から水を飲むネコ
作者:宇都宮敦 第一歌集『ピクニック』
一首目は、小猫を飼ったことのある人ならば、おなじみの光景なのですが、上句の「夏 耳に光をすかし」が新鮮です。
猫の耳は皮膚が薄く、まして小猫ならなおさらなのですが、「光をすかし」というう的確な観察があります。
「網戸をのぼる」のもたいていの猫がすることで、いくら小猫でも、飼い主には冷や汗ものなのです。「やめれ やぶれる」が単なる口語という以上に、猫向けの言葉でもあり、おもしろい。
二首目はコードで遊んでいた小猫が、飼い主の膝に上ったと思ったら、滴る水を飲んだという場面。
こちらは、飼い主といえども、なかなかお目にかからない独創的な場面です。
本多真弓『猫は踏まずに』
わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに
作者:本多真弓 『猫は踏まずに』
第一歌集『猫は踏まずに』のタイトルとなった歌。
会社員であり、歌人の作者、上句が口語の敬語であることから、二つのペルソナの間にある断絶を詠んでいるようです。
職場に居る時は「わたしくは」というわけで、上にあるのは、その事実を伝える口語です。
しかし、そこに「一匹たりとも猫は踏まずに」とつけ足す。
もしかしたら、会社員をしていない時の作者は「猫を踏」んだりするのかもしれず、職業人としての時間には、そのような振る舞いはしない、ということを加えているように思え舞えます。
上句の生真面目すぎる真面目さと、下の思いがけない展開がユーモラスです。
小池光の猫の短歌
ノラ猫を抱き上げて襟巻きとする霜の朝にまだ遠けれど
肛門をさいごに嘗めて目を閉づる猫の生活をわれは愛する
それはもうしばらくぶりに食ひにけるなまの雀に気ふれむばかり
猫の口よりもつとも遠い首すぢに蚤とるどくのくすりを垂らす
歌人の小池光さんは、猫好きを自称。
猫の歌がたくさんあります。
そして悲しい猫との別れの場面も詠まれています。
カーテンより朝光(あさかげ)の射す床上に猫のいのちはをはりてゐたり
なきがらの猫の首よりはづしたり金の鈴つきし赤き首輪を
野良猫のおまへを家に上げてより十五年経ぬああ実にさまざまなこと
抱きよせてふとんの中にゐし幸(さち)やころろころろとのどを鳴らして
ああ、しほさゐのおとがきこえるさらさらと猫の小さき骨壺振れば
秋の日はすべるがごとく落ちゆきて猫ゐぬ家にわがかへりゆく
ペットの寿命は人よりも短いため、どうしても別れが避けられません。
それがわかっていてもなお、人はペットを飼いたがるのですね。
他の現代短歌の猫の歌
大都市の綺羅のすきまの薄闇に女と猫の日常はあり
――松平盟子
枇杷咲いて空気の甘くにほふ窓猫はまふゆの雨を見てをり
――小嶋ゆかり
日だまりに坐せば腰湯のあたたかさとろりとわれは猫になりゆく
――栗木京子
猫涼み狸かくるる萩の茂り花咲く前もさかりの今も
――石川不二子
炎昼のひとかげあらぬ交差路を猫 an sich (即自的猫)歩みゆきけり
――大辻隆弘
猫の腹に映りし金魚けんらんと透視されつつ夕日の刻を
――杉崎恒夫
穂村弘の猫の象徴するもの
ここから、穂村弘の猫の出てくる下の作品の解説です。
シャボンまみれの猫が逃げだす午下がり永遠なんてどこにも無いさ
作者:穂村弘 『ドライ ドライアイス』
象徴的表現というもの
堂島昌彦さんの解説では
この歌では猫は実在の猫ではなく「永遠」の象徴的表現となっている。
ああなるほど、「猫は永遠であり、その猫が逃げ出してしまうということで、永遠はどこにもなくなってしまう」そういう読み方が成り立つということです。
そして、おもしろいことに、この猫は、宇都宮敦の歌の猫と比較して、猫は猫で生きている独立した存在ではなくて、穂村の歌においては「猫を歌に奉仕させるコード」のようなものがあるというのです。
それが「象徴」ということであり、そのためにこそ、この「猫」は歌の世界の中に存在しているというのですね。これは、素晴らしい解釈です。
堂島氏が、この歌まで一直線につながるという、近代短歌の猫の短歌は、次の記事でご紹介しましょう。