堀口大學の詩に「母の声」という詩があります。
母への思慕をうたう、美しい詩ですが、もうひとつ、堀口大學の有名なコクトーの訳詞「私の耳は貝の殻」には、声を”聴く”共通のキーワードと言うべき「耳」の言葉があります。
堀口大學の詩「母の声」を鑑賞します。
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「母の声」堀口大學の詩
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母の声
――母は四つの僕を残して世を去った。
若く美しい母だったそうです。――
母よ
僕は尋ねる
耳の奥に残るあなたの声を
あなたが世に在られた最後の日
幼い僕を呼ばれたであろうその最後の声を
三半規管よ
耳の奥に住む巻き貝よ
母のいまはのその声を返へせ
※他の教科書の詩の解説は
教科書の詩 教材に掲載される有名な詩一覧
母を幼くして亡くした堀口大學
詩の作者、詩人の堀口大學は、4歳で母上を亡くされました。
写真はあったかもしれませんが、幼い時の記憶であれば、母を鮮明に憶えているというほどではなかったでしょう。
作者は、「母の声」を切に聴きたいと願います。その思いを、詩にしたのが上の作品と思われます。
「母の声」の鑑賞と解説
堀口大學の昭和22年の作。
詩人が55歳の時の作品ということになります。
4歳で母上に別れた作者は、亡くなった母の面影は写真で見ることはあったかもしれません。
そして、父や母の親類に、母の人なりをたずねることもできたかもしれません。
しかし、今ならば録音ができるものは家庭にもどこにでもありますが、昔の時代です。
人の声というものは、いかに尋ねようとも、手掛かりすらありません。
母を母として感じたいと思った時に、詩人が欲したのは、写真の面影や、直筆の文字ではなく、母の声だったに違いないのです。
録音設備がない時であれば、母の声は、母その人をもってしか再現のしようがないものです。
母の声が聞きたいということは、「母その人に会いたい」ということに他ならないのです。
「声」というもの
母が、自分を読んだであろうその声。
そして、亡くなる間際に、子どもである私を切に切に求めたであろう、その声。
作者は、母に代わって自身に呼び掛けてみたでしょう。
「大學よ、大學よ」
しかし、頭に思い浮かべるだろうその「声」の音声は、どう思いを巡らせようとも作者自身の声でしかないのです。
作者は思ったでしょう。
「ああ、母よ、母よ、私が今切にあなたに呼び掛けるように、あなたも死の間際に懸命に私を呼ばれたであろう。
そして、私の声は私に聞こえるが、母の声はなぜ私に届かないのか」
耳に刻まれたはずの音の記憶
もう一つ、作者が自分を責めさいなむように、「母のいまはのその声を返へせ」と強い口調で訴えているのは、作者の「耳」に対してです。
遠いその日に、作者である自分自身が、その声を確かに聴いたはずだということなのです。
私の耳は、必ずや母が私を読んだ声を聴いている。しかし、なぜ、私はそれを思い出せないのか。
耳の奥にある、母の声のかけらを、できるものならば取り出したい。
私の耳に刻まれてあるはずの、その声を。
この詩を読んで、堀口大學の有名な訳詩を思い出さない人はいないでしょう。
「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」「耳」
「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」
これは、堀口大學が訳したコクトーの短い一行詩です。
海、mer メール はフランス語では母≪mère≫と 綴りは違いますが、音韻は同じ音。
そして、日本語では、漢字の「海」の中にも「母」が含まれてもいる。 そして、日本語では、漢字の「海」の中にも「母」が含まれてもいる。
フランス語を理解しない人でも、海と母とのつながりがおのずから思い出されてくるものです。
そして、それ以上に、この詩を見ると、コクトーの「耳」のモチーフが、作者の中でつながっていることがわかります。
母の声の代わりとなる詩のことば
耳の奥にある「母の声」をどんなにか取り出したかったことだろう堀口大學。
この世でもっとも美しい、自分に向けられた筈の母の声を求めようとする気持ちが、堀口大學を言葉の海、すなわち詩の世界へと向かわせることになったのかもしれないと想像します。
たった一つのその母の言葉を訪ね訪ねて、多くの詩をひもといた大學、そうして、彼はたくさんの美しい言葉、「母の声」を多く訳文として、人々に伝えることになったのです。
耳の中の声のかけら、また海の中にも眠るだろう大切な母の言葉を、広く広く人々に分け与えるかのように。
堀口の訳詞は、異なる言葉で書かれた詩、すなわち世界に眠る「母の言葉」のひとつなのです。
彼はそうして、言葉の伝道師としてすぐれた訳詞をたくさん残したのでした。
堀口大學 ほりぐちだいがく 経歴
1892年東京生まれ。1981年没。詩人、翻訳家、フランス文学者。東京本郷生まれ。名前は本名で、父親が東大生でかつ東大の赤門近くで生まれたので名付けた。
幼少期は新潟県長岡市で過ごした。慶應義塾大文学部仏文科中退。佐藤春夫とは大学時代からの親友。19歳から33歳にかけて海外で暮らした。
ブラジルにいた大正8年に創作詩集「月光とピエロ」を出し、大正14年には近現代のフランス詩を翻訳した訳詩集「月下の一群」で日本の文壇に新風を吹き込んだ。
アポリネールの名詩「ミラボー橋」など甘美な作風は、中原中也や三好達治など当時の若い文学者たちに多大な影響を与え、日本現代詩の発展に貢献した。
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