父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる
万葉集の有名な防人の歌の代表作品を解説・鑑賞します。また防人とは何か、東歌の特徴も併せて記します。
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読み:ちちははが かしらかきなで さくあれて いひしけとばぜ わすれかねつる
作者と出典
丈部稲麻呂 はせつかべのいなまろ 万葉集巻20-4346
現代語訳
父母が私の頭を撫でてと無事であれと言った言葉が忘れられない
万葉集の原文
知々波々我 可之良加伎奈弖 佐久安例弖 伊比之氣等婆是 和須礼加祢豆流
万葉集の表記は 上の万葉仮名で記された
父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつるの句切れと表現技法
語の意味と句切れ、表現技法の解説をあげていきます。
句切れ
句切れなし
表現技法
「言葉ぜ」の「ぜ」は標準語の「ぞ」にあたる。
「忘れかねつる」の「つる」は連用形で、「ぞ・・・つる」が係り結び
語彙と文法
・幸く…読みは「さく」。無事であるとの意味
・言葉ぜ…言葉は「けとば」と読まれている。「ぜ」とどちらも方言。
・「ぜ」は強意の「ぞ」
・忘れかねつるの「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形
父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつるの鑑賞
一首は、別れ際、自分の無事を祈って頭を撫でてくれた父や母のしぐさや言葉を通して、両親への思い、望郷の念を切々と詠んだものとされている。
「忘れかねつる」というのは、後からの回想なので、任地である九州へ向かう途中において、別れの際の家族の姿を忘れがたく思い出している作者の姿がうかがえる。
父母の自分を思う思いを受け止めながら、また自分からもそれを「忘れかねつる」として、両親と離れる悲しさを表す。
防人歌のモチーフとしては、防人の任務や防人に向かう決意を詠んだ歌もあるが、この歌では、家族の情が詠まれている点がポイントである。
家族の情が詠まれている防人歌であるところがポイント
「父母が頭かき撫で」の作者は
防人の歌には父母への脂肪を歌った歌が多く見られるこの歌は駿河国の防人歌という項に収められており、駿河、静岡県から、九州へ出かけて行った兵士の歌。
またこの歌は、駿河国瀧盛岡の一番最後に収められているため、作者の、丈部稲麻呂 はせつかべのいなまろ はおそらく最年少であったと思われている。
「頭を撫でる」の行為の意味
「頭を撫でる」という行為が含まれているので、小さい子供に対する仕草のようにも見えるが、あくまで兵士として徴収された作者なので、子供というほど年少者であったわけではない。
当時、頭を撫でることには旅人の無事を祈る儀式のような意味合いがあった。
聖武天皇が使いを送る際にも「かき撫でそ ねぎたまふ うち撫でそ ねぎたまふ」(6-976)のような歌があり、別れの際の当時の習慣であったのだろう。
この短歌の背景
また「父母が頭かき撫で幸あれて言ひし」を、実際にあった出来事の描写というよりも、事実としていくらか修飾も加わっているという見方もある。
要は必ずしも頭を撫でたというわけではなく、頭を実際に撫でたとしても、この作者は子どもではなかったという点を承知の上で鑑賞する必要があるだろう。
防人と防人歌
防人(さきもり)とは、飛鳥時代から平安時代の間に課せられていた税の1つ。
当時は、税金をお金ではなく現物や労働で納めていた。
防人は、天皇の命により北九州の警護を担当する仕事であり、それが税であった。
誤解をされがちだが、防人は戦争をしたわけではなく、戦争で死ぬわけではなかった。
ただし、当時の旅行は今よりも危険なものであり、数年の長期にわたったため、防人の家族たちは別れを悲しむ他なかった。
なお、これらの防人の歌は、万葉集に大伴家持によって集められ書き留められたものである。
防人歌と東歌
東歌は万葉集巻十四・古今集巻二十にある和歌を指し、防人歌はその東歌の中にある一連の歌を指す。
『万葉集』の東歌は、国名の明らかなもの 90首と不明のもの 140首から成るもので、多くは、東国の方言が使われて詠まれている。
文学上の特色は地方性、民謡性に認められ、粗野で大胆な表現や生活的な素材、豊富な方言使用などにより独自の世界をなしており、「東歌」として万葉集の中の他の歌と区別されて扱われている。
歌人の岡野弘彦は、万葉集での好みは東歌であるといっており、そのように独特の魅力がある。
防人歌の内容の違い
興味深いことに、防人歌は万葉集で地域別にまとめられているが、上総、今の千葉県の防人が詠んだ歌に関しては、妻を詠んだ歌が多く、駿河国の作品には、父母を読む歌が多い。
特に駿河国の一連の歌に関しては、父母、家との一体感が強く、それらと別れなければならない離別の悲しみが強く打ち出されて呼ばれているところに特徴がある。
単に読み込まれる対象の違いではなく、根底に発想の相違があったと推測することができる。