桜花咲きかも散ると見るまでに誰れかもここに見えて散り行く 万葉集の桜の短歌から一首をご紹介します。
柿本人麻呂歌集収録の桜を詠んだ有名な短歌の、現代語訳と品詞分解、文法の説明や解説鑑賞を記します。
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読み:さくらばな さきかもちると みるまでに たれかもここに みえてちりゆく
作者と出典
作者不詳 万葉集 柿本人麻呂歌集 巻12-3129
現代語訳と意味
桜の花が咲き散るのかと思うほどに、誰なのだろう、ここに見えて散っていくのは
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解説と鑑賞
歌の前に「羈旅発思(旅に思いを発(おこ)した歌)と記されている一連の歌の3首目にある短歌です。
旅人本人の歌と見送る人の歌が混じっている一連の中の歌で、旅する人々を見て歌った内容です。
旅する人々が行き過ぎるさまを見て、はかなさを感じ、それをあわただしく散る桜にたとえて、桜の花の有様から詠み始めて、一首をまとめています。
「咲きかも散る」
「咲きかも散る」の「咲き散る」というのは、花が散ることを、万葉集の時代では「咲き散る」といったそうですが、「かも」が挟まれているところを見ると、単に「散る」ことよりも、「咲いたかと思ったら散る」ということを表しているのでしょう。
「咲いたかなと思ったら」の疑問の意味の係助詞。正確には、「係助詞「か」に係助詞「も」が付いて一語化したもの」です。
「見るまでに」の「まで」は、時間と思考の経過と結果を表しているようです。
「かも」の効果と意味
「誰かも」の「かも」は先ほど出てきた「咲きかも」と同じ言葉で調子をそろえています。
「かも」で調子が整うのはもちろんですが、一首の構成からも大切な意味があります。
たくさんあって特定のしようもない桜の花びらと、同じく混雑して誰かわからない人、その「花」と「人」が、このように「かも」と同じ助詞を使うことで、等しく並置されていることがわかるようになっています。ここでは、その「桜の花のような人」であるのです。
事物の何を表すか
では、その桜の花の属性はというと、同じ桜でも、桜を見てその美しいさまを表すこともできます。
あるいは、美しいというより、「可憐で可愛い花」とみることもできますね。
つまり、同じ桜の花であっても、いろいろなとらえ方ができるのですが、ここでは、桜は咲いたり散ったりする花、花の開花期の短い花という点を強調しています。
桜の散るところだけをスナップのように描いた歌というのは、割と多いのですが、「咲いたり散ったり」というところが、この歌の特色です。
言い換えれば、「散らない桜」を歌に描くことも可能なのですが、上のような時間経過を含むとらえ方をしている。
桜の開花の「点」ではなくて「線」であるところを取り上げて表しているわけですが、それが逆に、短さや、はかなさの表現となっているのもおもしろいところですね。
そして、その桜の花になぞらえて、旅する人がここを通ってはまたどこかへ行ってしまう、その無常感のようなものを表しているのがこの歌の主題です。
この歌と少し似た歌に、百人一首の有名な歌、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関/蝉丸」というのがありますので、併せて鑑賞してみてください。
柿本人麻呂歌集とは
柿本人麻呂歌集( 読み)かきのもとのひとまろかしゅう
万葉集には「柿本人麻呂歌集より」といって、そこに載っていた短歌から掲載された歌がたくさんあります。
万葉集より以前にある和歌集で、柿本人麻呂が、2巻に編集したものと考えられています。
人麻呂作もありますが、作者不詳の歌も多くあり、この歌もそのひとつとなっています。
柿本人麻呂の経歴
飛鳥時代の歌人。生没年未詳。7世紀後半、持統天皇・文武天皇の両天皇に仕え、官位は低かったが宮廷詩人として活躍したと考えられる。日並皇子、高市皇子の舎人(とねり)ともいう。
「万葉集」に長歌16,短歌63首のほか「人麻呂歌集に出づ」として約370首の歌があるが、人麻呂作ではないものが含まれているものもある。長歌、短歌いずれにもすぐれた歌人として、紀貫之も古今集の仮名序にも取り上げられている。古来歌聖として仰がれている。