北原白秋と良寛の鞠 官能の詩人から童心主義へ  

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北原白秋と良寛の鞠 官能の詩人から童心主義へ

2020年4月7日

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北原白秋と、良寛和尚の鞠(まり)のエピソードを朝日新聞の「うたをよむ」に坂井修一さんが書いていました。

北原白秋が、良寛の鞠を手に入れたというのは本当のことで、白秋の歌集の中にも記されています。白秋と良寛の鞠との関わりをまとめます。

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北原白秋と良寛の鞠

良寛和尚と言えば、子どもを詠んだ歌を思い出さない人はいないでしょう。

良寛の歌で、もっとも知られている短歌は、おそらく下の二つだと思います。

霞立つながき春日に子供らと手鞠つきつつこの日暮らしつ

月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗の毬の多きに

この作品の中で「手鞠」と詠まれた「鞠」を北原白秋が手に入れて、それを歌に詠んだというのは、にわかには信じられない話です。

というのは、良寛和尚というのは、1758年から1831年の江戸時代後期を生きた人だからです。

良寛の鞠を手に入れた北原白秋

しかし、実は、これは白秋の歌集「黒檜(くろひ)」の中に書かれています。

白秋が、その鞠を手に入れたのは、大正12年であったようです。

その部分は

良寛遺愛の鞠

かねて懇望したりしかば、遂に越後長岡の知人よりやうやく届け来る。喜びかぎりなし。この鞠、見るからに円く稚く、赤と青とにてかがりたるが、手垢黒くついていとめでたし。

良寛は、越後、今の新潟県の人なので、良寛の住んだ越後の人が所有していたものを、白秋が譲ってもらえるように、お願いをしていたようです。

そして、その人が届けに来てくれて、白秋がたいそう喜んだことを自ら「喜びかぎりなし」と記しています。

良寛の鞠の様子

「丸く稚なく」の「稚なく」というのは、素朴な手作りの鞠であったということでしょう。

当時の鞠というのがどのようなものであったのかは知らないのですが、当時の鞠は糸でかがるものだったので、表面は布のようなものだったのかもしれません。

その表面を「赤と青」の糸で飾りのために、刺繍のように糸が縫い込んであった。

そして、「手垢黒くついていとめでたし」。これは、良寛の「手垢」と思われたので、「いとめでたし」として、それも白秋にとっては喜びであったようです。

その続き

小函に入れ、その函の蓋には良寛遺愛の鞠、裏には第十七代の孫新木吟雨とあり。吟雨六十二翁は与板の人、蓋し良寛の父以南の実家新木氏の子孫なる由。

鞠は箱に入って保管されており、良寛が使ったものが、父方の実家に伝わったものを、後に白秋が譲り受けたということのようです。

 

良寛の鞠を詠んだ白秋の短歌

この説明の後の白秋の短歌は

我が籠こもり楽しくもあるか春日さす君が手鞠をかたへ置きつつ

春ひねもす鞠のこもりの音聴くと幽かすかよ吾れの手触たふり飽かなく

として、その鞠をめでてやまなかった様子が詠まれています。

そして、「うたをよむ」の坂井修一さんが引いた歌、

春日さす鞠はかなしもうつしとる感光板にうつら影引く

とあるように、記念の写真も撮られていたようです。

ついで白秋は、良寛の手鞠歌ともいうべき下の歌を、自分の歌集に引用しています。

 

つきて見よ一二三四五六七八九の十、とをとをさめてまたはじまるを

読み:

つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを とおとおさめて またはじまるを

意味:

鞠をついてごらんなさい。一二三四五六七八九十、十までついたらまた一から始めるのです

この鞠は、良寛と交流があった、貞心尼に良寛が送ったもの。

僧侶と女性の僧侶のような尼僧ですので、淡い思慕の関係だったと思われますが、この歌もどこかほのかな相聞の様相を帯びています。

この歌を引いて、白秋は下のように自分の歌を続けています。

つきて見む一二三四五六七八九十を手もて数へてこれの手鞠を

 

しかし、その次の「霞立つかかる春日に子らとゐてつかしし鞠ぞいま手にはずむ」のあとの白秋の歌

おぼつかな鞠のありどの手を逸れて音なかりけり霞むこの昼

「春日さす鞠はかなしもうつしとる感光板にうつら影引く」の「うつら」は「はっきりと」の意味だと坂井さんが解説していますが、白秋は、この頃やがて失明にも似た目の障害を抱えていました。

おそらく糖尿病によるものだったと思われますが、この時にも白秋の眼疾は既に進んでいたようです。

「おぼつかない」の意味は、「はっきりしない」。この場合、はっきりしないのは、鞠のある場所です。

手でついていた鞠が離れて転がっていってしまうと、もうどこにあるのかがわからない。

この頃の手鞠は布のような素材で、転がったり弾んだりしても音もしないためです。

「霞むこの昼」は、良寛の「霞立つながき春日に」の「霞」なのですが、白秋は同じ「霞」の語を用いながら、自分の見るものがぼんやりしていることを、歌の中で告げています。

譲ってくれるよう、懇願していた鞠がやっと届いたとき、白秋にはその鞠は明るさの中の「影」としては見えても、もうはっきりとは見えなかったのです。

それは鞠の表面の糸の装飾であるかがりについて

手に撫でてつくづくと居れこの鞠のかがりの綾は透かせど見えず

と詠んでいるところからも伝わります。

童心主義に傾斜した北原白秋

白秋が良寛の鞠を欲した理由は、当時、白秋は「赤い鳥」に参加、童心主義に傾斜、童謡の作詞も手がけるようになっていたからです。

「ゆりかごのうた」や「あめふり」「まちぼうけ」など、誰でもが思い出せる平易な歌詞です。

おそらく、視力を失うのと相まって、白秋は子どもの詩という、新しい世界を得たのではなかったでしょうか。

あの、豪奢できらびやかな初期の白秋独特の官能的な詩の世界から子どもの心への回帰-

手あかがついた素朴な良寛の鞠もまた、白秋の心の目に新しい世界を開いてくれたものの一つだったのです。

北原白秋について

北原白秋(読み)きたはら はくしゅう

1885―1942福岡県生

処女詩集『邪宗門』で象徴詩に新風をふきこむエキゾチック感覚の象徴詩人として知られる。短歌では与謝野鉄幹の門人となり、「明星」「スバル」に作品を発表下が脱退。1913年(大正2)第一歌集『桐(きり)の花』を刊行、短歌の世界に象徴詩の手法を生かして注目された。

北原白秋の短歌の作風

初期には詩と同じく短歌にも耽美的な作風が強いが、その後は童心主義にも傾斜、後年の短歌集『黒繪』は、自らの眼病にも言及、境遇や生活を詠む作品が多くなっている。

北原白秋の他の短歌解説




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