藤沢周平は小説家ですが、文学を始めたきっかけは俳句です。
短歌では、アララギの歌人長塚節の伝記小説「白き瓶」があります。
きょうの日めくり短歌は、藤沢周平の忌日、寒梅忌にちなみ、藤沢の俳句と「白き瓶」についてお知らせします。
藤沢周平について
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藤沢周平は山形県生まれの時代小説家です。作品がいくつもテレビドラマや映画化され、名前が知れ渡るようになりました。
作品だけでなく、その生活スタイルも注目され、売れっ子小説家となってからも、一生を建売住宅に住み、海外旅行もするでなく、 「普通が一番」が口癖だった藤沢周平の暮らしぶりや、生活信条なども様々に紹介されています。
藤沢周平が歌人について書いたものは、同じ東北地方岩手県出身の石川啄木と、同郷の山形県の斎藤茂吉について述べたものがあります。
藤沢周平と「失敗者」石川啄木
藤沢周平が石川啄木について書いたものに、石川啄木がみんなに好まれるのは啄木が失敗者であったということをあげています。
人はみな失敗者だ、と私は思っていた。私は人生の成功者だと思う人も、むろん世の中には沢山いるにちがいない。しかし、何の曇りもなくそう言い切れる人は意外に少ないのではなかろうかという気がした。かえりみれば私もまた人生の失敗者だった。
これに当てはまる短歌としてあげられる石川啄木の代表作に藤沢は下の短歌をあげています。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ
上の文章で、藤沢は、「かえりみれば私もまた人生の失敗者だった。」と言っているわけですが、藤沢何に「失敗」したとして、自らを人生の失敗者だと言っているのかと言うと、一つは結核の罹患です。
エリート教員として出発しながらも、健診で肺結核が見つかった藤沢は闘病から復帰しても教員に戻ることはできまず、職探しも難航したようです。
そして、もうひとつの失敗は、妻が28歳で亡くなったことです。自分は結核から奇跡的にも治癒をし、第二の職業『日本食品加工新聞』の編集長に就任、家庭を構えて娘も生まれた矢先に、 3年後に妻が癌で急死するという出来事に、藤沢でなくても打ちのめされない人はいないでしょう。
しかしこれらの深い挫折の経験が、藤沢文学の礎となったことも間違いありません。
藤沢周平と斎藤茂吉
一方で、藤沢周平の出身地と同じ山形県の斎藤茂吉については、別な意味で興味深いことを藤沢が書いています。
藤沢があげる斎藤茂吉の一番好きな短歌というのが
あまつ日は松の木原のひまもりてつひに寂しき蘚苔を照らせり「つゆじも」
というもの。
その理由は、藤沢本人によると、『赤光』や『あらたま』の歌は、「私くらいの歳になりますと文学的すぎる」のだそうです。
大衆文学とはいえ文学をする人が「文学的過ぎる」というのも、なんだか不思議な言いっぷりなのですが、「酒なくて詩なくて月の静けさよ」の夏目漱石と同じで、分筆の人ほどシンプルな作品、肩のこらない作品が好みだということなのかもしれません。
藤沢周平と長塚節「白き瓶(かめ)」
他に藤沢周平の短歌とのかかわりと言うと、長塚節の伝記小説「白き瓶(かめ)」をあげます。
この小説が書かれた一つの理由は、長塚節が結核に罹患してなくなったからです。
しかし正岡子規も結核であり、同じく塔の中村憲吉や古泉千樫も結核で亡くなっているのに、なぜ長塚が主人公として選ばれたのか。
それはやはり長塚節の「婚約者との別れ」が理由としてあげられるかもしれません。
小説としての見せ場を作れるのはもちろんですが、それ以上に、愛する人とのどうしようもない別れは、藤沢周平の体験にも大きく重なるところがあったためでしょう
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藤沢周平の俳句
最後に藤沢周平の俳句をご紹介します。
いずれも、結核療養中の作品です。
汝を帰す胸に木枯鳴りとよむ
冬潮の哭けととどろく夜の宿
野をわれを霙うつなり打たれゆく
桐の花踏み葬列が通るなり
桐の咲く邑に病みロマ書読む
桐咲くや掌触るるのみの病者の愛
春昼や人あらずして電話鳴る
穂芒に沈み行く日の大きさよ
曇天に暮れ残りたる黄菊かな
雪女去りししじまの村いくつ
眠らざる鬼一匹よ冬銀河
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きょうの日めくり短歌は、藤沢周平の俳句をご紹介しました。
それではまた!
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