源実朝は鎌倉時代の将軍にして、天性の歌人といわれた人物です。
歌集「金塊和歌集」より源実朝の代表作で有名な和歌作品を現代語訳付で紹介します。
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源実朝とは
源実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の子どもで、将軍にして、天性の歌人と言われました。
その生涯は1192~1219年の28年間と短いものでしたが、若いころに和歌に熱中、夢に啓発されて詠んだ短歌を神社に奉納するなど、天才を感じさせるエピソードもあります。
源実朝の歌の特徴
源実朝の歌の特徴は3つあげられます。
- 万葉調
- 本歌取り
- 独創性
万葉調
藤原定家に師事した折に万葉集を贈られ、それを元に研鑽を積んだため、作品の多くが万葉調であるところが源実朝の和歌の特徴の一つです。
例:
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも
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本歌取り
万葉集だけではなく、その後の古今集、新古今集にも多くを学んでおり、それらの本歌取りをして詠まれた歌も多くあります。
例:
吹く風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
独創性
時代を超えて人々を驚かせ、また共感を呼ぶような特徴ある独創的な和歌があるのが実朝の大きな特徴といえます。
例:
時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ
源実朝の歌集『金塊和歌集』
源実朝には「金塊和歌集」という歌集があります。
実朝22歳までの和歌を収録。収録数は約700首もあります。
「金槐」の意味
「金」は鎌倉の「鎌」の偏、「槐」は大臣の意の唐名「槐門」の略です。
「槐門」の「槐(えんじゅ)」とは植物名、木の名前です。
古く周の時代、この木を朝廷に三本植え、政治的な最高位・三公(日本でいう太政大臣・左大臣・右大臣)のおわすべき位置を示したことから大臣の意味を持つ。
つまり、金塊は「鎌倉の(右)大臣」の意味で、実朝のことを指します。
金槐和歌集の成立
金槐和歌集の成立年は、1213年(建暦3)とされています。
ただし、実朝が右大臣になったのは暗殺直前のことであるため、金槐和歌集は、実朝の死後に編まれた歌集につけられた名称と言われています。
以下の代表作は主にその金塊集からの抽出です。
源実朝の有名な和歌
源実朝の代表作和歌として、最もよく知られている有名な和歌3首を最初にあげます。
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも
世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも
最後の歌は百人一首の93番に選ばれたものです。
まず上の3つの代表作から現代語訳と解説を記していきます。
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
読み:はこねじを われこえくれば いずのうみや おきのこじまに なみのよるみゆ
現代語訳と意味:
箱根の道を越えてきたところ、伊豆の海が伊豆の海が開けている。沖の小島に白波が寄せているのが見えるよ
解説
箱根を旅して、伊豆の意味の雄大さに感動を表す内容の歌で、斎藤茂吉は、この歌を金塊和歌集の代表作としています。
万葉集の本歌取りで、調べは万葉集に比べると柔らかいですが、「繊細な巧を弄せぬところに尊重すべき特色を持っている」という茂吉の評の通りです。
箱根を詠んだ歌には他にも下の和歌が良く知られています。
たまくしげ箱根のみうみけけれあれやふた国かけて中にたゆたふ
大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも
読み:おおうみの いそもとどろに よするなみ われてくだけて さけてちるかも
現代語訳と意味:
大海の磯もとどろくほどに激しく打ち寄せる波は、割れて砕けては、裂け
解説
力強い躍動感に満ちた描写が印象的な歌。
上句は、海の広さを思わせるゆったりとした調べに始まり、下句は一転、「われて砕けて裂けて」の反復があります。
小刻みなリズムを持つ、「…て」の3度の連続は、あたかも岸に繰り返し寄せる波を思わせます。
万葉集の本歌取り
万葉集には、この下のような本歌があります。
大海の磯もとゆすり立つ波の寄せむと思へる浜の清けく
作者:不詳
伊勢の海の磯もとどろに寄する波恐(かしこ)き人に恋ひ渡るかも
作者:笠女郎(かさのいらつめ)
斎藤茂吉の評
「実朝は先達の歌を本歌として、何一つおそるるところなく、ためらふところなくそれを摂取し、それを学んでゐるうちに、その言語を自分のものとして同化し、今度は実際の対象に相向ったときに、極めて自然に、且つ適格に、その実相を表現し得るまでになってゐたのではあるまいか。」―斎藤茂吉 金槐和歌集の解説より
※この歌の詳しい解説は
-
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも 源実朝
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも 源実朝の有名な和歌より実朝の代表作和歌の現代語訳と修辞法の解説、鑑賞を記します。
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世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも
読み:よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのおぶねの つなでかなしも
作者と出典
源実朝 (みなもとのさねとも) 作者名は 鎌倉右大臣実朝
金塊集(きんかいしゅう) 『新勅撰集』 小倉百人一首93
現代語訳と意味
世の中が変わらずあってほしい。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先(へさき)にくくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいとしい。
百人一首の和歌
この歌は、百人一首の源の実朝の歌として有名です
もの言はぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
読み:ものいわぬ よものけだもの すらだにも あはれなるかなや おやのこをおもう
現代語訳と意味
口をきかない、いたる所にいる獣でさえも、しみじみと胸を打たれることだ、親が子を大切に思う様子には
解説
けものがその子どもに相対するときの様子を見て、その仕草から「親が子を思う」として、親の愛情に心を打たれるとしみじみと詠ったものです。
対象は獣ですが、まして人間なら、親が子を思うのはもっと強いものがある、という意味を含んでいます。
「あはれなるかなや」の字余りと「や」
4句の字余りについて、斎藤茂吉は
「あはれなるかなや」とあるが、この「や」の存在こそ歌詠みにとっては事重大なのである。
として、この主観句の強調を取り上げています。
いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる 608
も、親のない子に焦点を当てて、母子の情愛を詠うものです。
いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる
読み:いとほしや みるになみだも とどまらず おやも なきこの ははをたずぬる
作者と出典
源実朝 (みなもとのさねとも)
金槐和歌集 608
現代語訳と意味:
かわいそうでたまらない、見ていると涙も止まらない。親もない子が母を求めて泣くさまを見れば
時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ
読み:ときにより すぐればたみの なげきなり はちだいりゅうおう あめやめたまえ
現代語訳と意味:
時によって度が過ぎると、ありがたい雨も民の嘆きの原因となります。八大龍王よ、もうこれ以上雨を降らさないでください。
八大竜王は法華経に出てくる竜の王のこと。
雨をつかさどり、雨乞いの祈りの対象ですが、大雨と大水の災害の先に、その王に逆に「雨を降らせないでください」と祈ったものです。
実朝のユニークな独創性がうかがえる作品です。
これにやや似た4文字の漢字を含む歌には、下の歌があります。
炎のみ虚空に見てる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし
来ぬひとをかならず待つとなけれどもあかつきがたになりやしぬらむ
読み:こぬひとを かならずまつと なけれども あかつきがたに なりしやぬらむ
現代語訳と意味:
来ないという人を待っているというわけではないが、もう夜明けになってしまうようだ
解説:
淡い情感のある恋の歌。「かならず待つとなけれども」とは言いならが、綾なす心持ちを情感豊かに歌います。
他の歌に比べても柔らかな調べに統一されているのは、新古今調に学んだものであるからです。
参考:
桐の葉も踏みわけ難くなりにけり必ず人を待つとなけれど 式子内親王
身につもる罪やいかなるつみならん今日降る雪とともに消(け)ななむ
読み:みにつもる つみやいかなる つみならん きょうふるゆきと ともにけななん
現代語訳と意味:
わが身に積もった罪というのは、はたしてどんな罪なのだろうか。今日降る雪と一緒に消えてしまってほしい
解説:
この場合の「罪」は仏教における「罪」のことを、「積もる雪」にかけて内省的に表したもの。
萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
読み:はぎのはな くれぐれまでも ありつるが つきいでてみるに なきがはかなさ
現代語訳
萩の花がさっきまでははっきり見えていたのに、月が出てその光に見てみようと思ったらなくなっている、このはかなさよ
解説:
わずかな間に花が散ってしまった、その変化に極限までのはかなさを見るという、繊細な作者の心持ちをうかがわせる作品です。
この歌と「大海の磯もとどろに」または「ものいわぬ四方の」とを比べてみると源実朝の作風の幅広さがわかります。
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやもの解説
現代語訳
もしこの世に山が避けたり大海が乾いて干上がったりすることがあったとしても、大王に対して二心を持つようなことは絶対にありません
解説
主君である大王、後鳥羽院への忠誠を表す歌です。
実朝らしい一途さにあふれています。
春霞たつたの山のさくら花おぼつかなきを知る人のなさ
現代語訳と意味:
春霞が立った立田山に咲く桜の花ではないが、そのように初恋の心がおぼつかないことを思っている相手はもちろん誰も知らない
解説
「初恋の心を」との詞書がある歌で、春霞にぼんやりかすむような桜の花を使って初恋の自分の心の状態を表しています。
源実朝の他の和歌作品一覧
旅をゆきし跡の宿守をれをれにわたくしあれや今朝はいまだ来ぬ
わたつ海のなかに向かひて出(いづ)る湯の伊豆のお山とむべもいひけり
肩敷きの袖こそ霜にむずひけれ待つ夜ふけぬる宇治のはいひめ
吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に日の入るときの空にぞありける
源実朝の評価
源実朝は実朝の歌は、賀茂真淵(かもまぶち)をはじめとして、斎藤茂吉、小林秀雄、吉本隆明、中野孝次らから高く評価されています。
特に実朝に触発されて短歌革新を進めたと思われる正岡子規と、子規の弟子で源実朝の歌集の行程を行った斎藤茂吉の評価を以下に記します。
正岡子規の源実朝の評価
正岡子規は源実朝を「第一級の歌人」として絶賛しました。
ただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。
歌詠みに与ふる書」ではその冒頭に
仰(おおせ)せの如く近来和歌は一向に振ひ不申(もうさず)候。正直に申し候へば万葉以来実朝(さねとも) 以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからとういふ処にてあへなき最期を遂げられ誠 に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。
そして、
人丸ののちの歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝
として、柿本人麻呂に匹敵する歌人として実朝をあげています。
源実朝の和歌の本歌取り
正岡子規は、実朝の歌の本歌取りで下のような歌を詠んでいます。
路に泣くみなし子を見て君は詠めり 親もなき子の母を尋ぬると
また、実朝を詠んだ歌に
はたちあまり八つの齢を過ぎざりし君を思へば恥ぢ死ぬわれは
こころみの君の御歌を吟ずれば堪へずや鬼の泣く声聞ゆ
鎌倉のいくさの君も惜しけれど金槐集の歌の主あはれ
もあります。
源実朝が将軍職と共に見事な歌を詠んで28歳で死んだことと自分を比べているのです。
2首目の歌は橘曙覧の本歌取りでもあり、実朝の歌を詠むと「鬼が泣く」くらい感動的で見事だというのです。
正岡子規が短歌革新に乗り出した頃で、源実朝の歌は子規に大きな方向付けを与えました。
斎藤茂吉の源実朝評
斎藤茂吉も源実朝の解説書を出しており、実朝を高く評価しているのは同じですが、下のような見方を書いています。、
実朝は、新古今集を読み、古今集を読み、藤原定家の教を受けながら、万葉集を得て、これらの歌集から多くの影響を受け、その歌を本歌として本歌取(ほんかどり)の歌をさかんに作っている。その間に実朝独自の歌境を表出しているが、実はいまだ初途にあったものと見做(みな)すべきである。つまり、実朝は歌人としてもいまだ初途にあって、殺されたと謂うべきである。
源実朝の本歌取り
斎藤茂吉の代表作「死にたまふ母」の
たまゆらに眠りしかなや走りたる汽車ぬちにして眠りしかなや
は実朝の
もの言はぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
の一部の語法をまねたものと言われています。
茂吉の他の歌にも実朝の影響を受けたと思われる歌が少なくありません。
源実朝のエピソード
源実朝関連の有名なエピソードでは、「愛国百人一首」の選出時に、源実朝の歌を外すべきだとの他の委員の主張に、斎藤茂吉が強く反駁、結果「愛国百人一首」に実朝の歌が含まれるようになったという出来事を土屋文明が紹介したものがあります。
その時の歌は、
山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
歌人のすぐれた作品への評価をめぐる議論が行われたわけですが、源実朝の歌を斎藤茂吉が高く評価していたことがうかがえるエピソードでもあります。
源実朝について
みなもとのさねとも 1192~1219鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。母は北条政子
12歳で征夷大将軍につき、官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられる。
翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。
歌人としても知られ、藤原定家に師事。92首が勅撰和歌集に入集、小倉百人一首にも作者名「鎌倉右大臣」として選ばれている。