東日本大震災から10年が経ちました。
その間、震災にあった福島の地を詠み続けた方の短歌が、朝日歌壇の特集記事に掲載されました。
きょうの日めくり短歌は福島の震災詠をご紹介します。
福島の震災を詠んだ短歌
東日本大震災より10年が経ちました。
被害の大きかった福島の地に合って被災された方々の、この10年の短歌が、朝日歌壇に紹介されています。
震災10年目の短歌は他に
朝日歌壇については下の記事をご覧ください
避難所のおにぎり一つの朝食に我も加わる長蛇の列に
福島県富岡町 半杭蛍子(はんぐいけいこ)さんの作品です。
2011年4月18日の作ですが、避難所で過ごしたのち、東京に住まわれたそうです。
おにぎり一つということは、被災直後のことであってほしいと思います。
ふるさとは無音無人の町になり地の果てのごと遠くなりたり
同年5月の作品。
都営住宅に入っての騒音から、逆にふるさとを回顧した作。
人の住まないふるさとを「無音無人」と表現するのです。
都営住宅には、プラスチックの衣装ケースやカラーボードを揃えましたが、家の桐ダンスや着物を思い、「家には立派な家具があるのに」と思わずにはいられなかった」
物品ではなく、それらのものがあるところに住むということが、人のアイデンティティーには極めて重要だということは、私にも覚えがあります。逆にどのような立派な家具でも、思い入れのないものは、自分とは無縁なのです。
前向きに生きると人に言いつつも前がわからぬと避難者の言う
避難された方、被災された方には、多くの励ましの言葉かかけられます。
「前向きに生きる」は一種の定型化した挨拶なのでしょう。
身一つしかなくなったときには、途方に暮れるしかないのです。
大震災八年を経て迷いつつ「家屋解体申請」つひにポストへ
見切りをつけるということも悲しいことです。
私も実家を震災とは関係なく手放しましたが、それでも悲しい。
意に反した解体は、文字通り、心にも残るものがなくなってしまい、喪失感を大きくするのです。
福島の原発事故を詠んだ短歌
福島のもうひとつの大きな被害は、原発事故です。
単なる自然災害だけではないため、被災された人の苦しみが察せられます。
福島を「負苦島」にして冬が来る汚染されたるまんまの大地
作者は美原凍子さん。11年11月28日の作品。
美原さんは
「震災に関することを自分が呼んでいいのか、という心苦しさがいまもあります」
と言われています。もっと被害が大きい人がいるとの思いからだそうです。
鮮やかな緑色なす封筒で内部被ばく検査(ホールボディーカウンター)通知来ぬ
直接の被害ではありませんが、震災の心理的な影響というのは軽視できません。
これらの不安にさらされた人が、どれだけいたことでしょうか。
大漁気はためく海へなぜ流すうすめたってうすめたってトリチウム
美原さんの作品はこれまでも目にしてきました。
震災詠も含め、どうぞたくさん短歌を詠んでいただきたいです。
春光の全て放射能塗(まみ)れ放射能塗れの土に父埋める
福島県いわき市の馬目空(まのめくう)さん。
私は、いわき市にも10年近く通ったことがありますが、自然の豊かなところです。
息子さんが長野にいるので、そちらに移ることになったが、介護職の奥様が、利用者のことを考えて、「放射能を浴びても、死んでもいいから帰る」といったそうです。
福島の俳句
馬目さんは俳句にも福島のことを詠まれています。
花の中被曝忘れるために酔ふ
花というのは、桜の花見のことです。
「被ばく」はいつもついて回るのです。
九年経ち未だフクシマと呼はる春
被曝分校後の春の空
「被曝」というのは、たとえば、広島が「被爆」というのとは字が違って、爆撃ではないが放射能にさらされたことを言います。
フクシマの墓穴墓穴の霜柱
移住と同時に、先祖代々の墓を移籍される。その掘り返された土に霜柱が立つのですね。
最後に朝日歌壇2月21日号から、十年を詠み込んだ短歌をご紹介します。
十年前あの日もやはり雪だった今の自分は確かにわたし
作者:富谷英雄さん
こちらは、福島ではなく、岩手県大船渡市にお住いの作者が、震災10年を経て確認する「わたし」に焦点を当てています。
10年前の雪景色の中の被災地、それが一首の中で、「今」のわたしに集約されて行きます。
誰にとってもたいへんな10年でしたが、「わたし」がある限り、短歌は継がれていきます。
どうぞ気後れせずに、短歌においても前向きに、歌をつなげていってほしいと思います。
きょうの日めくり短歌は、東異本大震災10年目の、「いのちの日」「おうえんの日」にちなみ、震災の短歌をご紹介しました。
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