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川島芳子の辞世の句と短歌・「男装の麗人」となった理由【日めくり短歌】

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川島芳子、男装の麗人、東洋のマタハリとも呼ばれたこの女性は、中国、清朝の王女で後に銃殺されました。

きょうの日めくり短歌は、川島芳子の辞世の句の詩と、獄中での短歌をご紹介します。

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川島芳子 男装の麗人の本名

川島芳子は日本名ですが、日本に来る前の名前は、本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし).

川島芳子は清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女です。

8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で育てられました。

日本に通じていたため、日本軍の工作員とみなされ、中国政府に銃殺されることとなったのです。

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川島芳子はなぜ「男装の麗人」に

川島芳子の写真では日本の軍服を着たものが有名です。

なぜ男装をするようになったのかは詳しくはわかりませんが、川島芳子の生涯を描いたドラマでは、養父川島浪速に関係を迫られて暴行を受けたという風に描かれていましたが、真偽の程はわかりません。

モンゴルの王族にも嫁ぎますが3年ほどで離婚となり、家庭的な幸福には恵まれなかったようです。

 

川島芳子の辞世の句

中国で銃殺刑となった川島芳子の辞世の句として伝わっているものは、下の詩になります

家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん

—川島芳子

wikipediaによると

この詩は、芳子が銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた辞世の詩だという。

「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という上の二句は芳子が生前好んで揮毫していた句であり、芳子の孤独な心情を表している。

中国と日本、二つの祖国を持ちながら、「家あれども帰り得ず」のまさしくその思いの後半生であったことでしょう。

 

川島芳子の短歌

川島芳子は、獄中で短歌を詠んでおり、200首を収めた歌集が後に出版されています。

それらは、昭和15年から処刑直前までの心情を書き付けたものでした。

あふれくる涙をひとに見えまじと戦ひながら生きながらえてあり

何故に吾を南にさそひしや国もとのやからうしろ髪ひく

悲しくば泣けとのたまふ母上も今はいずこの空にまします

しみじみと悲しき子等こそ通ふかな同じ涙の人生の道

めざむればあゝ今日もまた闘争の一日なりやとため息をつく

笑へども笑へども我が涙かな偽りならであふれくる今日

いさかひは浮世の常ぞ正しくばほゝゑみて行け我は父の児

 

歌に詠われた「母上」、「我は父の児」の「父」とは、中国の愛新覚羅の王とその妃にあたる父母でしょう。

これらの歌は、ほとんど殴り書きであり、長い時は一日をかけて判読が必要なものであったといい、意図された「作品」には当たりません。

しかし、切々とした心情が感じられる、川島の絶筆と言えます。

養子になって日本に渡った時には、まさか日本と中国が戦争になるとは、川島芳子は思いもよらなかったのではないでしょうか。

きょうの日めくり短歌は、川島芳子の辞世の句の詩と、獄中での短歌をご紹介しました。

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