信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空の色
島木赤彦の晩年の病臥中の一首。教科書や教材にも取り上げられている代表的な短歌作品の現代語訳と句切れと語句を解説します。
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信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空の色
読み:しなのじは いつはるにならん ゆうづくひ いりてしまらく きなるそらのいろ
作者と出典
島木赤彦 『柹蔭集』(1926年)
現代語訳と意味
信濃はいつ春となるのだろう。夕日が沈んでいまだしばらくは黄色に光が残っているこの空よ
句切れと表現技法
- 2句切れ
- 体言止め
語句と文法
- 信濃路…信濃地方をいうことば
- 春にならん…「なる+らむ(未来の助動詞)」
- 入りて…日の入り。日が沈むこと
- しまらく…「しばらく」に同じ
- 黄なる…黄色の 黄色である の意味
解説と鑑賞
大正15年、逝去の原因となった胃がんが発覚した闘病中の作品。
「いつ春にならん」というのは、未来のことだが、病状は差し迫っており、亡くなったのは3月27日で、本格的な春を待つことはなかった。
信濃路は、「信濃地方」全般を指すが、「信濃路」として短歌で用いられることが多い。
万葉集には、「信濃道は今の墾道刈株に足踏ましなむ沓はけわが背」 、斎藤茂吉にも「信濃路はあかつきのみち車前草も黄色になりて霜がれにけり」がある。
「入りてしまらく」は、時間経過だが、作者の島木赤彦は、病臥中に、これを窓から見ていたのであろう。
「黄なる空の色」は、1字字余りながら、そのまま「写生」の技法で見たままの様子を表している。
この「黄なる」は単なる空の色ではなく、日没後の予光のことである。
作者が自らの死を重ねていたかどうかはわからないが、「信濃路はいつ春にならん」のふるさとへの愛惜と、自らの病状では望むべくもない「春」への憧憬、そして、没してもなお残る余光は、やはりその時の作者の心境を意図せずにも反映しているとも思われる。
「隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり」がこの歌の前の歌であり、感情を抑えるというより、自らの死の受容も感じられる最晩年の絶唱の一首となっている。
島木赤彦とは
1876-1926 明治9年12月17日生まれ。長野師範卒。故郷長野県の小学校教員,校長をつとめながら、伊藤左千夫に学ぶ。大正3年上京し、斎藤茂吉らと「アララギ」を編集。「万葉集」を研究し、作歌信条として写生道と鍛錬道を説いた。大正15年3月27日死去。51歳。本名は久保田俊彦。旧姓は塚原。号は柿の村人など。著作に「歌道小見」歌集に「切火」「氷魚(ひお)」「太虗(たいきょ)集」等。