何がなしに頭の中に崖ありて日毎に土のくづるるごとし 石川啄木  

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何がなしに頭の中に崖ありて日毎に土のくづるるごとし 石川啄木

2021年11月2日

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何がなしに頭の中に崖ありて日毎に土のくづるるごとし

石川啄木『一握の砂』の短歌代表作品にわかりやすい現代語訳をつけました。

歌の中の語や文法、句切れや表現技法と共に、歌の解釈・解説を一首ずつ記します。

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何がなしに頭の中に崖ありて日毎に土のくづるるごとし

読み:なにがなしに あたまのなかに がけありて ひごとにつちの くずるるごとし

現代語訳と意味

どことなく頭の中に崖があって、毎日その崖の土が崩れていくように思えるのだ

句切れ

・句切れなし

語句と表現技法

  • 何がなしに…「なにか」に同じ。 どことなく。なんだか。
  • 日毎に…読みは「ひごとに」。一日ごとに、毎日 の意味
  • くずるる…文語の基本形は「くずる」。連用形。意味は「崩れる」
  • ごとし…「・・・のようだ」の意味。比喩を表す

解説と鑑賞

石川啄木の第一歌集『一握の砂』の冒頭の章「我を愛する歌」にある作品。

自らの気分を比喩によって的確な描写を試みる一首で、心に浮かんだもの様子を表しており、その日に心に浮かぶものは、崖の土の崩れるような感覚とその風景である。

「何がなしに」というのは、これという外的な事物に因する出来事がないことを表し、「頭の中に」は、その崩れが現実の風景ではないことを表す。

「頭の中に」は「心の中に」の同義であるが、「心」といわずに「頭」と言っているのは、それほど深刻ではない、微細な気分的な不調を表すと思われる。

一時的な考えの停滞や不調は誰にでもあることだが、その些細な、内面的なところに着目、それを歌の主題としたところに、石川啄木らしさがあると言える。

「何がなしに」の書き出しの歌

『一握の砂』「我を愛する歌」には、「何がなしに」の歌が他に2首みられる。

何がなしに/出でてあるく男となりて/三月みつきにもなれり

「現代語訳:用もないのに寂しくなれば出て歩く男となって、3ヶ月が過ぎた」

何がなしに/息きれるまで駆け出だしてみたくなりたり/草原などを

「現代語訳:理由なく息が切れるまで駆け出してみたくなった。草原などを」

最初の歌は最近の出来事から事実を詠うが、後ろの歌は、やはりその時の気分を表している。

前後の短歌

この前後の歌は、

こつこつと空地に石をきざむ音/耳につき来きぬ/家に入るまで

遠方に電話の鈴の鳴るごとく/今日も耳鳴る/かなしき日かな

どちらも、耳に聞こえる音を追想しており、一つは、耳鳴りを扱ったもので、啄木が短歌の制作の際に、自分自身の体と心にじっと耳を研ぎ澄ませているような態度であったことがわかる。

そしてこのようなところからも、題材が取れるのが啄木の短歌の特徴といえる。

石川啄木の短歌の特徴

石川啄木自身が短歌について、下のように書いているものがある。自分の短歌について書いたもの。

忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、とにかく歌といふものは滅びない。さうして我々はそれに依つて、その刹那々々の生命を愛惜する心を滿足させることができる。--「歌のいろいろ」石川啄木




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