分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火の代表作俳句一句の解説・鑑賞を記します。
作者山頭火の境涯への茫漠とした思いが表現されている作品です。
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分け入つても分け入つても青い山
読み:わけいっても わけいっても あおいやま
作者と出典:
種田山頭火
現代語訳
どれだけ歩いて行っても ただ青い山が続くだけの道なのだ
句切れと切れ字
句切れなし
切れ字なし
季語
季語なし
形式
無季自由律 五七五の定型によらない字数を自由に設定する俳句の形式
自由律俳句とは
自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる。文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴―wikipedia
その他の修辞
反復
解説
宮崎県高千穂の山中で詠んだといわれる山頭火の代表作俳句の一つ。
山頭火は、放浪の俳人として有名。
修行をする僧侶、雲水の格好をして、所持品も身の回りの物しかなく、全国を放浪した。
この句の作者の思いと感動
この俳句の前に「解くすべもない惑ひを背負うて行乞流転の旅に出た」と前書きがあり、初めての旅の時に詠まれた句とされている。
旅の途中は、食物を托鉢によって得るためもあって、人里のある所に明るい昼間のうちに移動することが望ましかった。
人里につけば、休むことも可能だったが、行く手のおぼつかない旅で、どれだけ歩いても変わらない景色に、行く手の困難なことが思われたのだろう。
また、さらに、作者は、定職につかず、同時に俳人として生きていくことを思っていたため、そのような定まりのない境涯が、いっそう行く手の茫漠とした感じを強めたと思われる。
「青い山」は実際の景色でもあるが、そのような作者の不安の多い生活の未来に重なって表現されている。
「分け入っても」の効果
「分け入っても分け入っても」の反復は、繰り返す歩みを連想させる。
特に「入っても」の吃音(小さい「つ」)が歩行のリズムを思わせるものとなっている。
「青い山」の情景
この歌に季語はないが、「青い山」とあるので、春、または夏山の緑の茂りも思い浮かべられる。
私自身のこの俳句の感想
歩いても歩いても、いつまでも変わらない景色の山道。見渡すと、どこまでいっても山の緑と暗緑の木陰があるばかり。作者の困難と困惑を感じます。句は「分け入っても青い山」だけで、最初の「分け入っても」が繰り返しになっているだけですが、そこに作者の工夫があるのだと気が付きました。
作者種田山頭火について
種田山頭火は1882年(明治15年)12月3日、山口県防府市生まれ。
尾崎放哉と並ぶ、自由律俳句の俳人です。
大地主・種田家の長男として生まれますが、11歳の頃の母が投身自殺。
早稲田大学に入学、家業の酒造業が失敗。
その後は、正業にはつかず寺男となるなどし、雲水姿で放浪生活をして句を詠んだ。
その数は、生涯で8万句を詠んだといわれている。
種田山頭火の有名な俳句
まつすぐな道でさみしい
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
生まれた家はあとかたもないほうたる
また見ることもない山が遠ざかる
鉄鉢の中へも霰
おちついて死ねそうな草萌ゆる