近代短歌は古典短歌とどう違うのでしょうか。
近代と古典、それぞれの短歌の作品を比較しながら、その違いについて考えます。
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近代短歌とは
近代短歌の「近代」は、「現代に近い」という意味で、明治時代後半の短歌革新以後、現代短歌に入るまでの時期に詠まれた短歌を指します。
近代短歌の成立は、正岡子規が短歌について記した文章『歌よみにあたふる書』が始まりといわれています。
正岡子規の提唱を元に、様々な歌人が、新しい短歌を模索、それらの作品が、近代短歌の特徴を備える一時代を構成していきました。
それ以降の短歌が、近代短歌に区分分けされているわけですが、時代や時期だけではなく、短歌そのものの特徴も大きく違っています。
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近代短歌の特徴
近代短歌の特徴をまとめると下のようになります。
・それまでの古典短歌にとらわれない新しいスタイル
・各歌人が(または派)の独自の基準や主義を採択
・集団性を離れて個性的で自由な表現
・花鳥風月の優雅な題材から生活の中の主題
・事物よりも作者の心情を重視
短歌の近代化
これら作風や主題の変化には、明治時代後半になって、人々の暮らしが変わり、生活が近代化、人々の個別化も強まり、考え方も複雑になったことが背景としてあるように思われます。
短歌の題材も花鳥風月を詠むといったものから、自らの生活を題材として積極的に、また具体的に取り入れるといった変化が見られるようになりました。
近代短歌の有名な歌人の実際の作品を例に挙げてみると、
いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす 正岡子規
いそがしく夜の廻診ををはり来て狂人もりは蚊帳を吊るなり 斎藤茂吉
しみじみと涙して入る君とわれ監獄の庭の爪紅(つまべに)の花 北原白秋
はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢっと手を見る 石川啄木
古典短歌との比較
これらの歌を、正岡子規が、『歌よみにあたふる書』の中に引用した歌と比べてみましょう。
正岡子規が、よくない歌として批判をしたのは、下のような歌です。
芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり 八田知紀
心あてに見し白雲は麓にて思はぬ空に晴るる不尽の嶺 村田春海
こうしてみると、近代短歌とそれまでの歌に大きな違いがあることが歴然としています。
近代短歌と古典短歌の大きな違い
比較して目に付くのは、まず一つは、主題の違いです。
古今集の時代の歌を手本にした上の歌は、風景を題材にし、歌の主題にしています。
近代短歌から例に挙げた方の歌、「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」は、花を取り入れていますが、下は自分の命の短いことを悲しむ作者の詠嘆です。
他は、斎藤茂吉は医師としての日常を詠んでいますが、「狂人もり」という言葉に、自らの職業への微妙な感情と忙しい自分への嘆きが込められています。
北原白秋は、監獄に収監されるという特殊な体験の驚きと失意、石川啄木は、生活の貧しさを正直に、またその絶望を歌います。
古典短歌で良しとされる「雅(みやび)」なところはありませんで、具体的で率直です。
一方、古典短歌は「霞」「桜」「雲」といった、他の多くの短歌に共通して常套的に使われている物がテーマとなり、詠み込まれています。
これらの言葉は名称でもありながら、歌の雰囲気を作る飾りのような言葉であるといえます。
短歌の主題の違い
上にあげた近代短歌の特徴は、自分の生活上の出来事が具体的に述べられていることです。
その目的は、生活そのものの様子を伝えることではなく、そこにある作者の心情を率直に表現するためにあります。
近代短歌の大きな特徴の一つは、この自らの個の心の重視とそれを表現することに重きが置かれたところにいえるでしょう。
一方、古典の短歌は、「霞」「桜」「雲」といった共通のものを詠み込むことで、むしろ「個」の感情はそれほど強調されてはおりません。
精神科医の仕事の歌は、その人にしか読めないが、「霞」「桜」「雲」は、誰しもが詠むことのできる主題で、それも含めて「個」へのこだわりは、これらの古典短歌には薄いことがわかります。
短歌と個性
万葉集の頃は、皆が声を合わせて歌えるような歌が良しとされたり、同じ言葉や句を共通して用いて、和歌を詠むことがありました。
言ってみれば、個性的であるよりも使いまわしの効く歌が重宝されたことがあったかもしれません。
そのあとの新古今の時代になると、歌を並べて優劣を競う歌合(うたあわせ)という催しが盛んにおこなわれました。
そこでは、歌が優れているという点で評価がなされていたため、自分の心情を表すことよりも、技巧を凝らされ、工夫された歌が作られました。
良しとされる歌の基準は、時代によって大きな違いがあるといえます。
言葉の違い
古典の短歌は、近代短歌よりも、さらに古い時代の言葉です。
古文と現代語とでは、時代が違うので、使われている言葉や、文法にももちろん違いがあります。
枕詞は万葉集の時代に用いられた言葉ですが、近代短歌、あるいは現代短歌でも、しばしば使用されています。
技巧的な古今・新古今の和歌
古典短歌、特に、古今・新古今の時代には、掛詞や縁語などの技巧を凝らした和歌がよいとされていましたが、近代短歌ではそれらの表現技法の使用はほとんど見られません。
表現技法の違い
倒置や体言止め、句切れなどは共通していますが、係り結びは古典短歌の方が多く用いられます。
逆に近代短歌で多く用いられるのは、比喩や擬人法などで、擬音、擬態語は、近代短歌の方が豊かになっており、短歌の表現で大きな効果をあげています。
近代短歌の広まり
上の例に挙げたような歌での、監獄に入れられたり、患者を診る精神科医であるというのは、風景の美しさや、恋愛の苦しみなどのような誰にも共通するような経験ではありません。
しかし、これらの歌は読む人に大きな共感を呼び起こしました。
読者が精神科医の悲惨をわがものとして、この歌を読んだのではないとすれば、皆の共感は別なところにあったと言えます。
この歌を読んだ人は、そのあとで「自分も自分自身のことを詠んでみたい」と思ったに違いありません。
おそらく近代短歌の広まりは、「自分自身の生活を歌にする」という志向の広まりではなかったかと思います。
ほかならぬ自分自身の生活を自分の言葉で詠む――近代短歌の作品はそれを実証し、その新しい志向がそのあとのアララギや明星の隆盛、ひいては近代短歌の大きな流れを作っていったと思われます。