『道程』高村光太郎の代表作の詩  

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『道程』高村光太郎の代表作の詩

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『道程』は「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」の詩句で知られる、作者高村光太郎の詩です。

『智恵子抄』より前の高村光太郎の初期作品の代表作です。

教科書や教材にも掲載されるこの詩のポイントを解説します。

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『道程』詩集について

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

のフレーズは作者は高村光太郎の「道程」の中にある最も有名な詩句です。

詩集のタイトル『道程』はこの詩から採られています。

『道程』の刊行は1914年で、後の代表作詩『レモン哀歌』を含む詩集「智恵子抄」が1941年の刊行です。

この詩は「智恵子抄」より以前の高村光太郎の若い時の初期作品を集めた詩集となります。

高村光太郎の記念碑的な作品であるだけでなく、大正詩壇を代表する詩集として数えられています。

道程の原文について

そのため、「道程」は原作とその後の改作の2つのバージョンがあります。

原文は大正3年2月9日作で、原形となる詩は「美の廃墟」の3月号に発表され、102行。

その後、上記の詩集「道程」に掲載された時には、この詩は9行に改作されています。

光太郎の若い日の詩『道程』をご一緒に鑑賞していきましょう。

 

『道程』の詩

こちらが完成形の詩『道程』です。

『道程』

作者 高村光太郎

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気迫を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

詩の形式

この詩は口語自由詩です。

詩の技法

詩の修辞では、最後の2行は、リフレインとなっています。

道程の意味

道程の意味は、辞書の解説をまとめると

1.その地に至る道のり。
2.ある所・状態まで達する途中。過程。

他にも

道に沿って見積もった距離。行き着くまでの道の遠さ。

という意味があります。

高村光太郎の父

高村光太郎の父は、高村光雲(たかむらこううん)。

日本の仏師であり高名な彫刻家です。

父光雲は

wikipedeiaによると

明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。―出典:フリー日本百科事典wikipedia「高村光雲」より

 

『道程』の内容解説

父の高村光雲が伝統的な日本美術の彫刻家であったのに対して、高村光太郎は西洋美術としての彫刻に傾倒していきます。

元々父光雲は、西洋美術を学んで、その写実主義のスタイルを日本の彫刻に取り入れていきますが、それはあくまで日本の彫刻の衰退を取り戻すためでした。

しかし、光太郎は留学を機に父への反発を強めていき、父とは別な道である西洋美術のを歩む決心します。

身近にあって指導者であり手本であるべき父ではなく、ロダンをはじめとする西欧美術の彫刻に芸術の理想を見出したのです。

同じく西洋画科として活躍を始めていた長沼智恵子と結婚。

彫刻の他に油絵も手掛ける傍ら、詩を書いて生活し、世襲制が当然であった日本彫刻の父の跡を継がない道を歩むこととなったのです。

高村光太郎の「道」の意味

作品中の「道」というのは、そのような光太郎の芸術上のアイデンティティーを主に指しています。

まだ、誰もが知らない新しい西洋の芸術を留学で目の当たりにした光太郎は、日本では自分がその先達であることを意識しています。

それが

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

の部分です。

「自分には手本がない、自分が歩んで振り返ったときこそ、それが自分の道である」というのです。

当たり前のようですが、日本美術が主流のところに西洋美術を学んだ光太郎の強い自負心もうかがえます。

父光雲からの独立

そして

僕を一人立ちにさせた広大な父よ

は、日本美術での第一人者とされる父からの独立を述べています。

僕から目を離さないで守る事をせよ

この詩句を見ると、父光雲は息子が日本美術を離れることを否定はしなかったのではないでしょうか。

そして光太郎はそれを「広大な父」と表しています。

さらに「父の気迫を僕に充たせよ」として、父を肯定しています。

高村光太郎の父についてと、その親子関係は「父」という語が出てくることで、その後の「道程」が芸術上の道であることが示されるとはっきりするでしょう。

「道程」の普遍的な命題

ただしこれは高村光太郎のような特殊な父子関係にあることばかりではありません。

フロイトのエディプスコンプレックスも示すように、父からの独立、父を超えることは誰にとっても等しく立ちふさがる、青年期の普遍的な命題であるのです。

 

道程 全文

以下に、原作の全文を示します。

どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自墮落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦惱にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戰慄に値ひする
四離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が此命に導く道だつた
そして僕は此處まで來てしまつた
此のさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の廣大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命の意味をはつきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此處と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ嚴格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度そのとき事態は一變した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く樣に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の氣魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ聲につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を經驗した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には廣漠とした岩疊な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は氣味の惡い程靜かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕は其の時又父にいのる
父は其の風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同屬を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
聲をあげて祝福を傳へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに從つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千萬人の中で百人も殘れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の爲め人間を澤山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつと此の風景に養はれはぐくまれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい氣を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て來ても乘り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ

出典:青空文庫

高村光太郎について

高村 光太郎(たかむら こうたろう)

1883年〈明治16年〉3月13日 - 1956年〈昭和31年〉4月2日)

日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)

日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。

父は彫刻家の高村光雲。妻高村智恵子は画家。

日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、詩人としても有名。

代表作詩集に『道程』『智恵子抄』があり、近現代を代表する詩人のひとり。




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