NHKの朝ドラ『らんまん』牧野富太郎の短歌  

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NHKの朝ドラ『らんまん』牧野富太郎の短歌

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牧野富太郎は植物学者でしたが短歌や万葉集の和歌に関心があり、自らも歌を詠んでいることが知られています。

牧野富太郎の短歌をご紹介します。

牧野富太郎と短歌

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牧野富太郎氏は日本を代表する植物学者で、近代植物分類学の権威「日本の植物学の父」と呼ばれる人物です。

今年から始まったNHKの朝ドラ、連続テレビ小説で、その生涯がドラマ化されています。

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牧野富太郎の短歌作品

和歌に関しては牧野富太郎氏は、アララギ本誌に「万葉集の縄ノリ」の海藻の解説や、短歌研究に「私の短歌感」の文章を寄稿しており、短歌にも関心があったことがうかがえます。

牧野富太郎氏の短歌作品を鑑賞していきましょう。

朝夕に草木を吾の友とせば心淋しき折ふしもなし

昭和8年作。

この時は72歳ですが、66歳で博士号を取得した牧野博士の生い立ちを見ると、佐川小学校を2年で中退しています。

植物学は独学で学んでいますが、本当に草木が友手であったのかもしれません。

我が姿たとへ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り

年老いてからの作品。

年をとって見た目もその通りに見えるが、気持ちは違うということを、植物の花の盛りに例えています。

我が庭に咲きしフヨウの花見れば老ひの心も若やぎにけり

こちらも92歳の時の作品で、心境が共通しています。

本当にこの歌の通り、植物とその花の時間を共有していた博士には人間の齢よりも、花の時間を生きていたと言えるかもしれません。

いつまでも生きて仕事にいそしまんまた生れ来ぬこの世なりせば

仕事というのはもちろん植物の研究です。

終わることを予感しているからこそ、長寿を願う。

それも植物の研究のためというのですから、生涯を通じた仕事の尊さがうかがわれます。

牧野博士はその通り長寿であり、亡くなったのは94歳の時です。

そしてその直前まで、植物の標本採集を続けていたそうです。

ちなみに66歳で博士号を取得したわけですが、それについては、牧野博士自身はあまり肯定的ではなく下の歌を詠んでいます。

何の奇も何の興趣も消え失せて 平凡化せるわれの学問

称号を与えられたことで「平凡化」してしまったというのですから、牧野氏は周囲からの評価よりもとにかく植物学という点以外には関心がなかったことがうかがえる一首です。




牧野富太郎と妻すえこのエピソード

牧野富太郎氏にはの妻君は壽衛子(すえこ)夫人。

理科大学への通り道にあった和菓子屋の娘さんということで、博士はお酒を足しまなず、甘いものが大好きだったところから知り合いになり結ばれたということでした。

夫人との間には13人の子があったというのですから大家族であったわけですが、何しろ博士は研究に忙しく、標本採集に家を空けることも多くありました。

今でいうさしずめ「ワンオペ育児」というところでしょうね。

家の資金が底をつく中、博士の研究を助け、ひとりで子育てと家の切り盛りをする夫人はさぞ大変であったと思われます。

牧野氏の研究の費用から借金もかさんでしまいましたが、夫人は子どもたちに

「わが家の貧乏は世間で言う貧乏とは違い、学問のための貧乏だから恥ずかしいと思わないように」

と言い聞かせていたようです。(出典:佐賀新聞

そして、この夫人の名を詠み込んだのが下の俳句、

世の中あらん限りやスエコ笹

こちらは牧野博士が名前を付けた植物の一つ「スエコザサ」を詠み込んだ短歌ではなく俳句です。

寿衛子夫人が病気で倒れた年、牧野は仙台で新種の笹を発見します。

翌年、夫人が亡くなると、感謝を込めてその笹を妻の名「スエコザサ」(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)と命名。

この句は下の句と共に寿衛子夫人の墓に刻まれました。

そのもう一つの句が

家守りし妻恵みやわ学び

妻への感謝を表した俳句。

寿衛子夫人に感謝するときもまた植物に関連した贈り物というのが、牧野氏らしいところです。

牧野富太郎と妻については次の記事に
牧野富太郎が妻の献身から命名したスエコザサの俳句

草を褥(しとね)に木の根を枕 花と恋して五十年

牧野氏が植物と一心同体であったことがうかがえる作品。

短歌ではなくて都都逸です。

「花と恋して」のたとえが牧野博士であればこその表現です。

山を分け入って、困難を承知で植物の標本の最終を続けた博士の生涯を振り返れば、誇張ではないそのままの表現と言えるのではないでしょうか。

牧野富太郎氏は日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製。

牧野氏の命名した植物が1500種類、標本の数は40万に及んでいます。




牧野 富太郎氏について

牧野富太郎 まきのとみたろう

高知県佐川町生
1862年4月24日- 1957年1月18日
牧野 富太郎は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。位階は従三位。 「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。1957年没。死後文化勲章受賞―出典:フリー百科事典wikipedia 牧野富太郎

牧野富太郎の本

アマゾンでレビュー数の多い牧野富太郎関連の本。

牧野氏自身の代表的な本。

牧野富太郎氏による植物の随筆100題。




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