牧野富太郎が妻の寿衛子の名前をとって、スエコザサと命名したというエピソードは有名です。
牧野富太郎が妻への感謝を詠んだ「スエコザサ」の俳句をご紹介します。
牧野富太郎と短歌
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牧野富太郎氏は日本を代表する植物学者で、近代植物分類学の権威「日本の植物学の父」と呼ばれる人物です。
今年から始まったNHKの朝ドラ、連続テレビ小説で、その生涯がドラマ化されています。
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牧野富太郎と「スエコザサ」
牧野富太郎の短歌については下の記事でご紹介しましたが、今回ご紹介するのは、俳句の方です。
牧野富太郎の妻は壽恵子(すえこ)という名前ですが、その名前を新種の笹に「スエコザサ」と命名。
その植物の名を詠み込んだ俳句ともう一句を、壽恵子夫人の墓石に刻みました。
その句と2句は以下の通りです。
家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹
家守りし妻の恵みやわが学び
こちらは妻への感謝をそのままに表した俳句です。
寿衛子夫人は、借金を抱えても植物の標本づくりと研究に明け暮れする夫を終生支え続けました。
寿衛子夫人との間には13人の子どもがおり、子育ての苦労は大変なものがあったと思われます。
その上、借金をしながらも夫の研究費用を捻出し、夫の研究を支えました。
寿衛子夫人は子どもたちに下のように言いきかせたと伝えられています。
「わが家の貧乏は世間で言う貧乏とは違い、学問のための貧乏だから恥ずかしいと思わないように」
(出典:佐賀新聞)
その献身には富太郎も深く感謝をしていたのです。
世の中のあらん限りやスエコ笹
こちらは牧野博士が名前を付けた植物の一つ「スエコザサ」を詠み込んだ句。
寿衛子夫人がが病気で倒れた年、牧野は仙台で新種の笹を発見します。
しかし、翌年壽恵子夫人は55歳で亡くなってしまいました。
「スエコザサ」の学名
壽恵子夫人は、感謝を込めてその笹を妻の名「スエコザサ」と命名。
学名は ササエラ・スエコアナ・マキノ というものです。
その笹共々詠み込んだ俳句が寿衛子夫人の墓に刻まれました。
寿衛子夫人に感謝するときもまた植物に関連した贈り物というのが、牧野氏らしいところではないでしょうか。
牧野富太郎と妻
実は寿衛子夫人は、牧野氏の最初の妻ではなくて、2番目の妻であるようです。
最初の妻の名前は猶(なお)。
牧野氏の郷里の土佐にいるときに、郷里の土佐に結婚したのですが、寿衛子夫人はその後牧野氏が研究のため東京に移ってから知り合った相手です。
寿衛子夫人は東京の理科大学近くに遭った和菓子屋の娘で、甘いものが好きだった牧野氏が見初めたというのが出会いだったとのことですが、その時には牧野氏の郷里には妻の猶がいたというのですから驚きです。
牧野富太郎の2人の妻
さしずめ、二人の妻の間でトラブルになったのではと思いがちですが、寿衛子夫人もそうなら、最初の夫人の猶夫人もたいへんに人間が良くできた人であったとも伝えられています。
寿衛子夫人に子どもができた時は、牧野氏に手をついてお祝いを述べ、祝い品である腹帯をお岩の品として贈ると言ったそうなのですから、賢夫人というほかありません。(出典:朝井まかて『ボタニカ』)
しかし、牧野氏は結局猶夫人と離婚、その後、糟糠の妻となる寿衛子夫人と終生添い遂げることとなりました。
牧野富太郎と妻寿衛子
それでは、寿衛子夫人は幸せだったのかというと、どうもそのようではない、苦労の連続であったようです。
一方 温和なことで知られる 牧野富太郎も家庭内では 癇癪を爆発させた。子供たちにとって彼は実に恐るべき怖れる父親だったのである。 おそらく 大学での事情とか収入のことなどを考えて、腹が立ってくると、突然彼女を怒鳴りつけ 、膳を投げ飛ばした。そのため 膳の上にあったものが飛び散り、天井はいつも シミだらけだった。怖くなった子供たちが 逃げ出しても彼女だけは逃げなかった 。そして自分は少しも悪くないのに彼に向かって「申し訳ありません」と謝り続けた。彼女は一切 抵抗しなかったし 彼の悪口も一切言わなかった。出典:「牧野富太郎: 私は草木の精である」著者: 渋谷章
これを読むと夫人の苦労がどのようなものであったのかがうかがえます。
その上13人の子どもを抱えた借金苦があったわけですが、夫の研究を支え続けたのはほかならぬ夫人でありました。
牧野富太郎の楽天主義を支えた妻
同書は
牧野富太郎の楽天主義は、ある意味では妻の犠牲の上に成り立っていたからである。
とも述べています。
というよりも、妻もまた別な意味での楽天家であったに違いありません。
植物の研究者として
しかし言ってみれば、研究者の妻というのはどこも同じようなもので、このような二人の関係を礎に牧野氏の生活と植物の研究が成り立ったというのはめずらしくはない話ともいえます。
ともすれば、成功した面にだけスポットが当てられがちですが、いかに楽天家と家でも牧野氏にも牧野氏の苦労ももちろんあったのでしょう。
そしてすえ子夫人だけでなく、前の妻も、一人の研究者を育てるにはいろいろな見えない人もその背後にはいるということも当然ながら覚えておきたいところです。
その感謝を表したのが「スエコザサ」だったのですね。
事情を知ってから「世の中のあらん限りやスエコ笹」の句を読むと、この植物の名前にもっと多くを感じるに違いありません。
牧野氏の命名した植物は2500種類、標本の数は40万に及んでいます。
牧野 富太郎氏について
牧野富太郎 まきのとみたろう
高知県佐川町生
1862年4月24日- 1957年1月18日
牧野 富太郎は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。位階は従三位。 「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。1957年没。死後文化勲章受賞―出典:フリー百科事典wikipedia 牧野富太郎
牧野富太郎の本
アマゾンでレビュー数の多い牧野富太郎関連の本。
牧野氏自身の代表的な本。
牧野富太郎氏による植物の随筆100題。
牧野富太郎の生涯が小説仕立てで読めます。