薄明のわが意識にてきこえくる青杉を焚く音とおもひき
佐藤佐太郎の教科書や教材にも取り上げられている代表的な短歌作品の現代語訳と句切れと語句を解説します。
スポンサーリンク
薄明のわが意識にてきこえくる青杉を焚く音とおもひき
読み:はくめいの わがいしきにて きこえくる あおすぎをたく おととおもいき
作者と出典
佐藤佐太郎 第一歌集 『歩道』 所収
現代語訳と意味
夜明け前のおぼろな私の意識で聞こえてくる音を、青い杉を炊く音と思っていた
句切れと表現技法
- 句切れなし
語句と文法
- 薄明…夜明け前 (※以下に解説)
- 青杉…杉の種類の一種
- 炊く…杉を焼くの意味
- おもひき…「思ふ」(思うの文語、旧仮名遣い表記)+「き」過去の回想の助動詞
解説と鑑賞
第一歌集 『歩道』 (昭15) 所収、自分自身の意識を振り返って詠む歌。
まだ光が淡い頃の早朝に耳にした音を、「青杉を炊く音」だと思ったというのが一首の内容である。
この音が実際に何の音だったのかはわからないのだが、作者が「そう思った」という、その心の中をよぎったという出来事自体が歌の主題となっている。
また、この音と、その音を立てる物体が、実在の物と同じように扱われているところに、人のイメージのおもしろさがある。
そして、「思ったのであった」という、音を聞いた時点と、作歌の時点との時間の重層性にも特色がある。
短縮と省略の技法
「聞こえくる」は、まだあくまで音だけで確定できない「音」であるはずなのだが、これを短縮して、「聞こえてくる音を青杉を炊く音だと思った」と言わずに、「聞こえてくる青杉の音」と続けているところにも注意する必要がある。
「聞こえてくる音」と「青杉を炊く音」には、空間と時間両方の飛躍があるのだが、人の心がそれをひとつに縮めているのである。
そして、短歌など文章はそれを可能にし、不思議な時空が一首の中に凝縮されている。
このような手法は、師である斎藤茂吉も「赤茄子の」歌で類似のモチーフを用いていることがよく知られている。
薄明とは
初句の「薄明」については、意識のおぼろな状態をあげる解説もあるが、佐藤佐太郎は、これを朝の時間としている。以下に
夢と現実との間の意識で何か楽しい音を聞いていた。薄明は朝の薄明のつもりであった。ただそれだけを言った。説明を排して強く言うのが詩である。
佐藤佐太郎 『短歌を作るこころ』・1985年(「角川選書」)
斎藤茂吉の「薄明」の歌
「薄明」に関しては、斎藤茂吉の歌への連想が下敷きにあるだろう
わが気息(いぶき)かすかなれどもあかつきに向ふ薄明にひたりゐたりき
暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
斎藤茂吉のこれらの短歌において、「薄明」はいずれも老年の淡くなった意識と重なって用いられている語である。
佐藤佐太郎の『つきかげ』他解説
「白き山」「つきかげ」斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説5「茂吉秀歌」
結句の「思ひき」の意味
結句の「思ひき」の「き」は、過去の回想の助動詞で、「思ったのであった」の意味となる。
杉の葉は生でもよく燃え音を立てて暴ぜるため、その「音」、または、祖霊類似した音が作者の耳にしたものである。
「青杉」は杉の種類を指すが、「青」に若い杉、葉の青い杉もおのずと連想され、薄明の時間と相まって清涼な感覚が喚起されるところである。