『梁塵秘抄』の有名な歌、「遊びをせんとや生まれけむ」のピーター・マクミランさんの英訳と、そのエピソードとが朝日新聞「星の林に」に掲載されていました。
たいへんわかりやすい訳です。さらに 訳者のマクミランさんのこの歌の解説と翻訳時のエピソードが興味深いものでしたのでお伝えします。
スポンサーリンク
万葉集や百人一首を英訳 ピーター・マクミラン
ピーター・マクミランさんは、アイルランド出身の学者、翻訳家で、杏林大学客員教授。東京大学非常勤講師。
これまで、万葉集のほか百人一首などを翻訳して海外に紹介されてきました。
今回掲載されたのは、日本の古典「梁塵秘抄」でとくに有名な歌の一説、「遊びをせんとや生まれけん(む)」の部分です。
「遊びをせんとや生まれけん」原文
遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ
(『梁塵秘抄』巻2)
「遊びをせんとや生まれけん」の現代語訳
この部分の現代語訳を示します
遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。戯れをしようとして生まれてきたのだろうか。遊んでいる子らの声を聞くと、私の体までもがおのずと動き出す
マクミランさんの解説
「遊ぶ子供の声を聞くと体が動いてしまう」というのは、ほとんど無意識のうちに童心にあこがれる姿を捉えていて、胸に迫る。
そして、思わず動き出す体をよそに「遊びをしようと生まれてきたのだろうか?」と自問する心は複雑で、哲学的な深みを持つ。
知的な深みを、単純で素直な旋律に落とし込んだ、ユニークな作品だ。
「遊びをせんとや生まれけん」英訳
マクミランさんの英訳は下の通りです。
Were humans born to play?
Born to have fun?
When I hear the cries
of children playing,
my body starts to move too.
翻訳についての訳者の説明
また、マクミランさんは、翻訳の意図を次のように説明しています。
「遊びをせんとや」(遊びをしようとして)という言葉を文字通りにLet’sなどの表現を用いて訳すと、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を連想させるような深みが伝わらなくなる。やむなく主語をhumansとし、一般性を持たせて訳した。
哲学的な問いかけか遊女の内省か
マクミランさんのこの訳だと主語は humans、つまり「人間とは」という哲学的な問いかけを含むということになりますね。
日本語の文だと主語が明示されないことが多いので、何かの言葉を当てなければなりません。
もし、この主語が、私=I であったらどうでしょうか。
「私はいったい何のために生れてきたのだろうか」
そして、これを歌っているのが、刹那的な”遊び”を生業とする、遊女という立場の人だったのですから、この問いに、哲学的で知的な深みとはまた別の情緒的なうら悲しさを感じ取ることもできるかもしれません。
関連記事:遊びをせんとや生まれけん『梁塵秘抄』の遊びの本当の意味
「梁塵秘抄」と今様について
この一節は平安時代後期に流行した当時の流行歌、今様と言われるものの一説です。
流行歌の多くは、当時どんなに歌われていても、記録されない限りは霧散してしまったと思われますが、後白河院が、この今様というものに熱中し、歌い手であった遊女に歌と身振りを習い、その歌と教えを詳しく書き留めたからです。
”第二の万葉集”に
その歌集が『梁塵秘抄』として、今の世に残っているのです。
しかし残念なことに、残っている梁塵秘抄と「梁塵秘抄口伝」は本編10巻、口伝集10巻のうちの、最初の2巻のみっです。
ピーターマクミランさんは、梁塵秘抄が巻1、2しか残っていないことについて、
「もし梁塵秘抄の全巻が残っていれば、万葉集にも匹敵するほどの大歌謡集となっていたはずだ」
と書いています。
今のようなテレビやラジオなどのメディアがない時代にそれほどの流行歌が作られて、歌われていたというのはそれだけでも驚くべきことですね。
「流行歌はどうしても記録に残りにくい」(マクミラン)なのだそうですが、当時の民衆の生き生きとした息吹を伝えるのもむしろ整った文学作品よりも、このような流行歌であると言うべきかもしれません。
後白河院の熱意のおかげで、「奇跡のように」今に伝わっていると思えば、古典というものは誠に大切なものだと改めて思わされます。