信濃道は今の墾道刈株に足踏ましなむ沓はけわが背
万葉集の14巻東歌の中の有名な相聞歌を解説・鑑賞します。
夫婦愛を伝える歌としてよく知られている作品ですが、沓を履くのは夫なのか馬なのか、解釈の違いと理由をお知らせします。
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信濃道は今の墾道刈株に足踏ましなむ沓はけわが背の解説
読み:しなのじぢは いまのはりみち かりばねに あしふましなむ くつはけわがせ
作者と出典
作者未詳 万葉集巻14-3399
現代語訳
信濃路は今切り開いたばかりの道です。切り株で馬に足にけがをさせてはいけません。靴を履かせなさい、あなた
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万葉集の原文
信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之奈牟 久都波気和我世
句切れ
4句切れ
語彙と文法
・信濃道…吉蘇道(きそぢ)のこと。大宝2年 702年に工事が開始されて713年の和銅6年に開通した。
・墾り道…開墾されている道のこと
・刈りばね…木の切り株と思われる
・踏む…けがをするの意味
・背…夫のこと
解説と鑑賞
この歌には、夫の足を案じて「夫に靴を履け」と言ったという説と、「馬の足に沓をはかせなさい」という二通りの解釈がある。
夫の身を案じて、「靴を履きなさい」と言ったというのが、歌の雰囲気としてはわかりやすいのだが、万葉集の学術書においては、下のように記載されているので、最新の解釈がこちらになる。
下二段の「履く」には使役の意味が加わり「履かせる」という意味になる。(中略)よって「沓履け」は「沓を履かせなさい」と解釈しなければならない。(福沢健)
沓を履かせる対象は「馬」
その場合、靴を履かせる対象は、夫の乗る馬、であり「沓」というのは馬に履かせる、「馬沓」となる。
「足踏ましむな」は、馬の足にけがをさせてはいけないという意味。
馬と夫の解釈の違いの理由
なぜ、このような解釈の違いが生じたのかというと、万葉仮名の歌の原本が二つあったためとなる。
最初は「足踏ましなむ」
最初は、元暦校本の「安思布麻之奈牟」「足踏ましなむ」を採用。
その場合の該当箇所は「なむ」であり、その場合の「なむ」は推量であるため、「足にけがをしてしまうでしょう。靴を履きなさい」となる。
次の「足踏ましむな」
一方、もう一つの写本は、「安思布麻之牟奈」「足踏ましむな」となっている。
「しむ」に「させる」の使役の意味があるため、「踏ませる」のは馬だということになる。
この部分の品詞分解は下の通り。
「足踏ましむな」品詞分解
・踏む…ケガするの意味
・しむ…使役の助動詞 「踏ませる」
・な…確述の助動詞
・む…推量の助動詞
「履く」の意味
「履く」には4段活用と下二段活用があり、下二段の活用に従うと、「履く」には使役の意味が加わり、これも「履かせる」の意味になる
よって、「靴はけ」は「靴を履かせなさい」との意味になり、履かせる対象は馬であると考えられる。
作者の心情と場面
上記の違いによって、当初は、都へと旅立っていく夫を気遣う妻の歌と一般的には理解されている。
新解釈によると、一説には馬で通ってくる夫を待っている女性の歌とも言われている。
作業歌との見方
また、斎藤茂吉は『万葉秀歌』において、「山野を歩いて為事をする夫の気持でやはり農業歌の一種と看ていい。」と言っているので、農業歌というのは、万葉集にある作業歌の意味であろうと思う。
つまり、農業に従事する人たちが、農作業をしながら、集団で歌った歌だという説である。
斎藤茂吉の『万葉秀歌』の評
斎藤茂吉の評は、夫に沓を履かせるという解釈に依っているが、そのまま引用します。
信濃国歌。「今の墾道」は、まだ最近の墾道というので、「新治今つくる路さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを」(巻十二・二八五五)が参考になる。
一首の意は、信濃の国の此処の新開道路は、未だ出来たばかりで、木や竹の刈株があってあぶないから、踏んで足を痛めてはなりませぬ、吾が夫よ、履をお穿きなさい、というのである。
履は藁靴であっただろう。これも、旅人の気持でなく、現在其処にいても、「信濃路は」といっていること、前の、「信濃なる須賀の荒野に」と同じである。
--以上『万葉秀歌』より